(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
勘解由小路
(INDEX:索引へ)
「平安京の通り名」の内、読みの難しいのが
勘解由小路
(現在の
下立売通
に相当)。
「
かげゆ
こうじ」、京都の人は“訛って”「
かでの
こうじ」と読みます。どうして「こんな名前が付いたのか」調べると、歴史の勉強にもなります。
左は「平安京の坊条図」
(大内裏の図も貼り付けた)
「紫色の横線」が勘解由小路
(下立売通)
。
「勘解由」の名が残るのは『藤原忠通の「勘解由小路烏丸第」』
(
左京一条三坊十一町
、青色四角形で示した)
。
勘解由使
に由来していることは間違いない。ところで「勘解由使」とは何か。
まずは
解由状
(げゆじょう)
の理解が必要になります。
官人の交替に際して、新任者が「前任者の職務を支障なく引き継げられる」旨を記した文書のこと
(現代用語では「業務引継書」に近いか)
。
国司のような“利権の多い”職務の場合は、前任者の物品・金銭管理が“いい加減”だ
(きちんと会計・物品管理をしていない、もしくは“不正がある”)
と、新任者は引き継げない。
すなわち新任者は「解由状」を書く
(発行する)
ことができない。
この状態が続くと「官人
(主に国司)
の交替が滞る」ことになる。
奈良時代からこの問題は多発していた。
【第1次】そこで「桓武の新政府」はこの問題解決のため
勘解由使
という
令外官
(令の規定に無い官職)
を
延暦16年(797)
に設置した。
まずは「交替制度の整備
(『交替式』)
」
(例:解由状の提出期限、遅滞の場合の罰則、前任者の反論状(不予解由状))
を行い、大同元年(806)に「勘解由使を廃止した」。
この期間の「勘解由使の職場」は
上図@(赤色)
と想像されている
(後の「東前坊」(さらに後は「東雅院」))
。
【第2次】「交替制度の整備」だけでは解決しなかったので、
天長元年(824)
天皇
(政府)
直轄の
常置官
として勘解由使を設置し
(長官1人・次官2人・判官3人・主典3人の四等官構成)
、
交替を督察
させた。
このときの
(常置官)
「勘解由使庁」は
上図A(紫色)
に置かれた
(後の「真言院」)
。
【第3次】その後、督察の対象は「内官」にも広がり、
承和2年(835)
「勘解由使庁」は
上図B(緑色)
(中務省の南)
に移った。
これにはいろいろな背景があって、承和元年(834)空海の奏請で「密教の修法道場」
(
真言院
)
の設置が必要になり、勘解由使庁は移設を止む無くされた。
もはや天皇
(政府)
直轄ではなく、太政官
(その中の中務省)
配下でよいだろうと思われたのではないか。
今も「勘解由小路」にある「査察関連の組織」
藤原忠通「勘解由小路烏丸第」の跡は
京都府庁(
下立売通釜座正面
)
京都府警察本部(
下立売通釜座東入ル
)
府警本部近くに「勘解由小路町」として残った
勘解由小路
は
勘解由使庁
があったから・・・という説明について
歴史的に、勘解由使は第1次
(交替制度の整備)
、第2次
(常置官として督察)
、第3次
(長期間継続)
とあったわけだが
(常置官としての第2次)
「勘解由使庁」が最初に置かれた位置にある通り
を「勘解由小路」と呼ぶようになった
(と推察するのが自然だろう)
。
庁の位置と通りの位置が最もよく一致するのは「第2次」だから、説得力も高い。
現在も
(上の写真のように)
下立売通
には「勘解由使」のような職場が並んでいる。
時折、勘解由小路の由来に
(数多く流布している「大内裏図」を見て)
「勘解由使庁は
中務省
の南に位置したから」との説明も見受けられるが、この位置は「第3次」の位置(上図のB(緑色))で、
下立売通とは位置が違う
。「勘解由使庁が移設したという事実を知らないで」説明していると思われます。
勘解由小路の新たな疑問
第2次勘解由使庁ができたのは
天長元年(824)
だから「この小路」を
それ以前は何と
呼んでいたのか
(30年間)
。
史料が無く
わからない
。
御所に近い小路には「名前が付いていなかった」かもしれない。
蛇足
延暦16年(797)、藤原内麻呂
(後に右大臣)
が「勘解由長官」に兼務補任された記事がある
(最初の長官)
。
延暦25年(806)、多治比今麻呂
(後に宮内卿)
が「勘解由次官」
(第1次の最後か)
就任、との記録がある。
菅原道真は
仁寿2年(852)
「勘解由次官」、寛平5年(893)「勘解由長官」
(共に第3次)
に就任、とある。