(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
西京区
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京都市の行政区は十一ある。悩ましい名前は、西京(にしきょう)区である。
北区・南区ができるときに“伝統的な区名のたてかた”を貫いてもらえば、
北京(きたきょう)区、南京(みなみぎょう)区、東京(ひがしきょう)区ができたであろう。
中国の人、東京の人は怒るかもしれないが、この方が面白さがあってよかったと思うのは私だけだろうか。
- 【梅棹事典からの一部引用】
- 現在、京都市の行政区は十一ある。上京(かみぎょう)、中京(なかぎょう)、下京(しもぎょう)、左京(さきょう)、右京(うきょう)、北、南、東山、伏見、山科、西京(にしきょう)の各区である。そのなかで、昭和のはじめまでは上京と下京のふつつしかなかった。伏見は・・・合併されて伏見区になり、中京がうまれ、左京、右京とできてゆく。そこまでは区の命名は順調だった。問題は北区・南区誕生のときである。伝統的な区名のたてかたによれば・・・北京・南京ということになる。・・・しかしこれは中国に有名なふたつの大都市があったため採用されなかった。それで北区・南区という、なんの変哲もない名まえとなってしまった。ところが最近、桂川西岸域を分区した際、西京区と命名された。・・・そうすると東の区は東京区とよぶことになるが、すでに山科区が存在しており、・・・当面、東京区誕生による、混乱はさけられそうである。
区には、かなり大きさ(面積)に偏りがあります。
左京区・右京区は、群を抜いて、大きい。
北区は、最北ではない(左京区・右京区がもっと北にある)。
南区は、最南ではない(伏見区が南に横たわっている)。
(蛇足)京都市はすべて(ごく一部以外は)局番「075」である。
- 【私説】
- 京都市役所で区制の変遷を見ると、区のできた順序は、上京区・下京区(明治12年)、左京区・中京区・東山区(昭和4年)、右京区・伏見区(昭和6年)、北区・南区(昭和30年)、山科区・西京区(昭和51年)で、梅棹事典が間違っているようだ。
- 区の名前は“伝統的な区名のたてかた”を貫いて欲しかった。貫けば、上京区、下京区、中京区、左京区、右京区、北京区、南京区、東京区、西京区、伏見区、山科区の十一区になったはずである。この方が面白さがあってよい。
- 読み方はおそらく、北京(きたきょう)区、南京(みなみぎょう)区、東京(ひがしきょう)区になったであろう。
- 因みに京都市役所が使っている区の並び順は、北区、上京区、左京区、中京区、東山区、山科区、下京区、南区、右京区、西京区、伏見区である(何順か不明)。
- 【蛇足】なぜ最初に「上京区・下京区」ができたのか
- 平安京は「左京・右京」で構成されていたので、最初に「左京区・右京区」ができるのが自然であろう。
- そうならなかったのは平安京の歴史による。
- 平安京は当初から、右京は土地が湿っていて住居に不適当であったため、右京は早くから衰退し、人家は左京に集中した。
- そうなると、人口の増加に伴って、左京は南北に延びるしかなかった。
- (京都市歴史資料館の資料によれば)平安末期には「上辺・下辺」という言葉が生まれ南北朝時代には「上京・下京」という語が使われるようになり、天文年間(1532〜)には町の自治・自衛のため「上京・下京」ごとに「町組」もできた。
- この流れで、江戸時代当初から『京都の町は上京・下京』で構成・運営されていた。
- 因みにどのへんで分かれていたかというと二条通を境にしていたらしい。
- ということで明治になって市制が施行されるときに“実態に即して”『最初に「上京区・下京区」ができた』ということである。