(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
町組
(ちょうぐみ、まちぐみ)
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京都の町
(地域)
の由緒ある名前は、明治2年の
番組小学校
の名前
(≒「元学区」名)
に源があるようだ、とすでに述べてきた。
ところがさらに調べていくと『
町組
がさらにその源』になっている、ことが分かった。
歴史を勉強することは重要である。
【京都市歴史資料館資料からの一部引用】
室町期、京都の町衆が力を付けてきた。「天文法華の乱
(天文5年(1536))
」
(町々が焼き尽くされた)
をきっかけに
『町衆の住む町々が自治・自衛・団結のため組織化』
していった。
これが町組
である。
(補足)この頃の京都の町は
「上京・下京」
で構成・運営されていた。
天文6年(1537)
には下京に「中組、西組、巽組、艮組、七町半組」の
5組
が組織化されていた
(との記録がある)
。
(補足)下京に先に町組ができたのは、下京には町衆が多く、上京には公家が多かった、からと思われる。
町組の発生
天文6年(1537)、下京の5組の代表が集まったのは「六角堂」と言われている。
「六角堂」は平安京成立以前からあり、
京都のへそ
と呼ばれるほど、京都に住む人の「中心地」であった。
天文18年(1549)には上京に「立売組、一条組、中筋組、小川組、川より西組」の5組が組織化されていた
(との記録がある)
。
さらに寛永15年(1638)には
上京には「立売親八町組、立売親九町組、上中筋組、下中筋組、上一条組、下一条組、小川組、上西陣組、下西陣組、聚楽組、上川東組、下川東組」の
12組
があった。
下京には「上艮組、南艮組、三町組、仲九町組、仲十町組、川西十六町組、川西九町組」の
8組
があった。
組名としては「7組」しか記述されていない。
町組の集会場
下京の町組の代表が集まった「六角堂」に対して
上京の町組の代表が集まったのは「革堂」。
「革堂」は室町の頃には
町衆の信仰
を集めていた。
現在は「
寺町通竹屋町
」にあるが(左写真)
創建当初(寛弘元年(1004)頃)は「
一条通小川
」の北にあった(右写真)
概ねこれで固定されたが
さらには、これらを「親組」
(または「古町」)
として、その下部に「枝町」
(または「新町」)
、さらには「離町」、「小組」なども組織化されたようである。
(補足)かつこれらの町組
(枝町・小組)
が
祇園祭の鉾町
につながった。
明治2年(1869)、これらの町組
(親組〜枝町・小組)
が改正され(第二次町組改正)
上京・下京合わせて
65組
(上京=33、下京=32)
に再編された。
これが
元学区
につながった。
(補足)
「番組小学校」
にもつながった。