(京都の寺社−今昔−写真比較)
勧修寺
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正式名称・宗派
:亀甲山勧修寺/真言宗山階派大本山(末寺約130)
開基
:
醍醐天皇
が生母藤原胤子の追善のため昌泰3年(900)胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改め東大寺の承俊を開山として創建した。弥益の娘・列子は藤原高藤(北家)に嫁したことから高藤の流れを汲む家系を寺名にちなんで勧修寺家という。
15代に後伏見天皇の皇子寛胤法親王が入寺されて以来宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。
寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では
「かじゅうじ」を正式の呼称
としている。一方地名「勧修寺」の読み方は
「かんしゅうじ」
である。
住所(昭和40年代の表記)
:東山区山科勧修寺仁王堂町
交通の便:市営地下鉄東西線「小野」下車(徒歩10分)または京阪バス29番「勧修寺」下車(徒歩5分)
特記
:
這栢槇の枝の広がり、勧修寺型燈籠
のある書院前庭(江戸時代)は上品。入口参道の築地塀・
松並木
は時代劇撮影によく使われていた。書院(重文)の違い棚は「勧修寺棚」と呼ばれる典雅なもの。
関連する東山三十六峰
:なし
公式サイト
:なし
建物
昭和40年代
現在
(撮影年月日)
1972−10−9
2007−11−2
参道の「築地塀」
比較(コメント)
「松並木」だったのですが
「
桜並木
」になり、舗装もされた
時代劇の撮影はできなくなった
(撮影年月日)
1972−10−9
2007−11−2
「
勧修寺型燈籠
」
比較(コメント)
拝観料100円
這栢槇
がますます拡がり
堂宇の上で背伸びしても見えなくなった