(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
延喜天暦
(えんぎ、てんりゃく)
の治
(ち)
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60醍醐・62村上の治世を「延喜天暦の治」と称し「聖代として賛美」する風がある。我々も歴史の授業でそう習った。
「それは真実か」という観点で調べてみた。
以下天皇名については、誤解を招かない個所では「天皇・上皇」を省略し「代数(2桁の数字)」を接頭させる。
延喜天暦聖代(説)
特に
96後醍醐が
建武の中興
に際して、摂関政治・院政・幕府を排して「天皇親政」の復活を図ろうとした時、「延喜天暦の聖代に戻ろう」と唱えた。
そして自ら「後醍醐」と諡号するよう遺勅し、次の天皇も97「後村上」とした程である。
南朝公卿の北畠親房
(
村上源氏
)
が著した歴史書「神皇正統記」も「高らかに」延喜天暦聖代を讃えている。
そして太平洋戦争の「皇国史観」も延喜天暦聖代(説)に基づいている。
確かに60醍醐・62村上の治世では「摂政・関白」がごく少なかった。
60
醍醐
は、摂政・関白を任命しなかった。かつ崩御するまで在位した。在位期間34年
(寛平9年(897)〜延長8年(930))
。
62
村上
は、最初の4年は藤原忠平が関白、忠平没後は任命しなかった。かつ崩御するまで在位した。在位期間22年
(天慶9年(946)〜康保4年(967))
。
上段:天皇の在位期間 下段:摂政or関白の任官期間
(共に長さは概数、背景青色=摂関政治時代)
(説)は真実か
形の上
で60醍醐・62村上の治世は「摂政関白を置かず天皇親政」のように見える。
実態
はどうだったか
60醍醐は
13歳で即位したが、父59
宇多
が
(60醍醐即位時点で31際の働き盛りで、60醍醐在位期間ずっと)
健在であり「院政」こそ敷かなかったが、59宇多上皇が政権を主導していた。
60醍醐治世の
議政官
は藤原氏が多数を占めており
(まだ「摂関政治」は始まっていないが)
59宇多の即位に動いた
藤原基経
の子・時平・忠平兄弟が政権の中心にいた。
「天皇親政」と言える状況ではなかった。
62村上は
21歳で即位したときには「
藤原忠平が関白
」にいて数年後には忠平の子「
実頼・師輔
が左右大臣」の座を占めた。
関白忠平没後、関白を置かなかったとはいえ、62村上の
出る幕はなかった
。
60醍醐・62村上の治世に
政策的に見るべきものはなかった
。
60醍醐は
菅原道真の左遷
を容認した。
延長5年(927)
延喜式が撰上
された。これは藤原時平・忠平兄弟の功績。
増え始めた「荘園」の増加に積極的な対策を講じなかった。
60醍醐・62村上治世の
人事面の公平さ
(先例に準じる)
は後世から羨ましがられていた。
「延喜天暦聖代」と書かれた文献を探すと、摂関政治時代にも見つかる。
(摂関政治時代に入った)
64円融、66一条の治世下では「延喜天暦聖代には依怙贔屓のような人事は無かった」と訴える「申状」が多く見られる。
菅原道真
藤原忠平
醍醐天皇の
後山科陵
村上天皇の
村上陵
昌泰2年(899)60醍醐の右大臣
(同年時平左大臣)
延長2年(924)60醍醐の左大臣
(後62村上の関白)
天智天皇山科陵
に因むほど由緒のある名前だが、そこそこ離れている。醍醐に近い「醍醐の陵」
「福王子」から山道を10分程歩く。「その名も村上陵」
【私説】延喜天暦の治の評価
「延喜天暦の治を聖代」として理想化するのは間違い。
この考えは形(表面)だけを見た「天皇親政を尊ぶ皇国史観」そのもの。
96後醍醐も
(天皇親政だけに気をとられて)
、昭和初期の陸軍
(後者は意識的に)
も共に、
(「形だけの聖代」を「実際の聖代」と)
見誤った。
「延喜天暦の治」は「先例を重視する文治の時代」と見るのが正しい。
「摂関はいない」が
(藤原氏が力を蓄えつつある)
摂関政治時代への「移行時期」。
天皇の在位も長く、道真事件を除けば、表面的には落ち着いた時代だったとも言える。