(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
百人一首ゆかりの地(in 京都)
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歌人(詠み人) と 歌 | ゆかりの地の「写真」 | ゆかりの地の「説明」 | 補足 |
(26)貞信公 をぐら山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆきまたなん | 大堰川(に架かる現在の渡月橋)から見た「小倉山」(写真、左のお椀形) 晩秋の大堰川(嵯峨野)は溢れんばかりの紅葉が美しい | 「小倉百人一首」には欠かせない光景 | |
(55)大納言公任 滝の糸は 絶て久しく なりぬれど 名こそながれて なをきこえけれ | 大覚寺の脇の大沢池北方にある「名古曽滝」址(写真) 滝の音が聞こえれば、なお昔を偲べるのですが | 千載集以降「滝の音は」と読む読み手も出てきています | |
(10)蝉丸 これやこの 行くも帰るも 別れては しるもしらぬも 相坂の関 | 逢坂山峠に建つ「逢坂山関」址(写真) (現)大津市大谷町にあるので厳密には「in 京都」ではない この関を越えれば「洛外」となる、別れの場所でもあった | 「相坂山」は三条右大臣(25)、清少納言(62))にも出てくる (歌人ゆかりの地となる)関蝉丸下社(歌碑も)は流石に大津市 (先頭へ) |
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(64)権中納言定頼 朝ぼらけ 宇治のかはぎり たへだへに あらはれわたる 瀬々の網代木 | 快晴で「川霧」は出ていないが「宇治川」(写真)です 初冬に訪れればこの歌の雰囲気に近づけるか | 宇治の料理旅館のHPに網代木の想像図が載っている(参考まで) | |
(8)喜撰法師 我庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふ也 | この山が「うぢ山」か、実際は喜撰山(写真中央手前の山、喜撰ヶ岳とも) でも歌は「この山の美しさ」を詠ったわけではない、「こんな山の中に住んでいる」と詠った | 宇治神社には歌碑がある | |
(98)従二位家隆 風そよぐ ならの小川の 夕暮は 御祓ぞ夏の しるしなりける | 上賀茂神社境内を流れる禊ぎの「楢の小川」(写真) 6月30日には「夏越しの祓」(六月祓)が行われる 夕暮れならなお良かったか | 間違っても「奈良の小川」と読んではいけません (先頭へ) |
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(46)曽禰好忠 由良のとを 渡る舟人 かぢをたえ 行衛もしらぬ 恋のみちかな | 「門(と)」は河口で川(写真右手)と海(同左上)が出会う潮目のこと 山の上(由良ヶ岳)から「由良の門」(写真)がよく見える いかにも“難航”しそう | 和歌山の由良という説もあるが、歌人は「丹後掾」でもあったから写真の「由良川」でいいでしょう 歌碑は写真左端(のさらに左)あたりにある |
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(32)春道列樹 山川に 風のかけたる しがらみは ながれもあへぬ 紅葉なりけり | 「志賀の山越で眼前の光景を見て詠んだ」と詞書にあるから、写真(今出川通からの分かれ道)のところから東(左)へ入ったところで詠んだに相違ない 「流れ」は「白川」、今でも紅葉は綺麗 | 北白川 天満宮の 紅葉 (写真は少し早かった) |
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(60)小式部内侍 大江山 いくのゝ道の とほければ まだふみもみず 天のはしだて | この歌で最終的にイメージするのは「天橋立」(写真) 「大枝山」を越えて「生野」(現福知山市内)を経る道は遠い、まして「天橋立」は見たこともない、と詠っている | 「大江山」は酒呑童子の大江山ではない、お間違えなく 「大枝山」は「老いの坂」の脇にある 「生野」には歌碑がある (先頭へ) |
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(95)前大僧正慈円 おほけなく 浮世の民に おほふ哉 わがたつ杣に すみぞめの袖 | 「わがたつ杣(そま)」は「比叡山」のこと この歌は「比叡山の情景」を詠んだわけではないが、「比叡山」(写真)が思い浮かぶ | 慈円は青蓮院の第三代門主を勤めた | |
(27)中納言兼輔 みかのはら わきてながるゝ 泉河 いつ見きとてか こひしかるらむ | 「瓶原(みかのはら)」は恭仁京が営まれた地(写真左の平地) 「泉河」は現在の「木津川」(写真右樹の奥に流れている)のこと 恋の歌だが写真のような光景も恋しい | 歌碑は木津川に架かる「恭仁大橋」のそば 「賀茂川堤」に住んでいたことから堤中納言と呼ばれた 「堤中納言物語」との関係は不明 |
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(49)大中臣能宣 みかきもり 衛士の焼火の 夜はもえ 昼は消つゝ 物をこそおもへ | 「御所」の周辺は御垣守(みかきもり)の衛士が「篝火」(かがりび)を焚いて守っていただろう 今は夜になっても「焼火」(かがりび)はない 写真は現在の「京都御所」の周縁 | 勿論当時の御所は千本通だから、写真とは異なるので、当時を偲び難い(下の「順徳院」も同様) (先頭へ) |
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(47)恵慶法師 やへ葎 しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね あきは来にけり | 詞書に「河原院にて・・・」とあるので、この地で詠んだもの 名宅であった「河原院」(写真はその址地)も源融没後荒れ果て、八重葎(写真にも無い)が茂っていたのだろう | 源氏物語「夕顔」の段にも「河原院」は出てくる 「河原院」は河原左大臣(14)の豪邸 |
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(100)順徳院 百敷や ふるき軒端の しのぶにも なをあまりある むかし成りけり | 「百敷」は「大宮(紫宸殿)」のこと 写真は現在の紫宸殿 | 宮中で詠まれた歌は多い 列挙し難い 「順徳院陵」は大原陵(後鳥羽院と一緒)にある |
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(71)大納言経信 夕されば 門田の稲葉 をとづれて あしのまろやに 秋風ぞ吹 | 詞書に「師賢朝臣の梅津の山里にまかりて・・・」とあるので、洛西梅津で詠んだもの 梅津には梅宮大社があり、「山荘らしき茶室」(あしのまろや)が残っている(写真) 秋の写真ならなお良かったのに | 勿論「師賢朝臣の山里」が現存するべくもないが「偲べる地」にはなっているか 多分こんな雰囲気だったのだろう 歌碑も梅宮大社の東(千代の古道)にある (先頭へ) |
歌人(詠み人) と 歌 | ゆかりの地の「写真」 | ゆかりの地の「説明」 | 補足 |
(97)権中納言定家 こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくやもしほの 身もこがれつゝ | 藤原定家の嵯峨山荘があったのは、「常寂光寺」仁王門の北・「二尊院」の南(左の写真は「常寂光寺の境内にある石碑」)で確定している 嵯峨野が「撰者定家」ゆかりの地であることは間違いない | 「まつほの浦」は淡路島の北端(兵庫県) | |
(89)式子内親王 玉のをよ 絶なば絶ね ながらへば 忍ぶることの よはりもぞする | 式子内親王の墓(写真)は定家葛の塚にある この地には是非訪れて欲しい | 定家との恋は事実不明だが、この歌は新古今集の中でも「忍恋」の一番と言われている | |
(24)菅家 此たびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき かみのまにまに | 北野天満宮が最も有名だが、道真の生誕地(写真)も偲ぶに相応しい ここは現在は菅原院「天満宮神社」(祖父・父の邸宅跡)で、菅公産湯の井戸もある | 「手向山」は春日の山ではなく、京都・奈良の県境にある山らしい (先頭へ) |
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(9)小野小町 花のいろは うつりにけりな いたづらに 我身よにふる ながめせしまに | 小野小町伝説は全国津々浦々。京都でなら随心院がお薦め 写真は随心院にある「小野小町化粧井戸」(写真) ここまで来れば「深草少将」の匂いも | 小野小町終焉の地についても諸説あるが、静市市原の補陀洛寺とも | |
(77)崇徳院 瀬をはやみ 岩にせかるゝ 滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ | 雨月物語に倣って四国の白峰御陵まで行きたいが、京都でなら崇徳院が祭神となっている白峯神宮(写真) 崇徳院の怨霊に負けないように | ||
(86)西行法師 歎けとて 月やは物を おもはする かこちがほなる わがなみだかな | 西行は漂泊の歌人ですから全国にゆかりの地がある 西行庵(写真)は西行が「祭華園院」を営んだ真葛ヶ原の旧蹟(in京都) 西行が剃髪し、西行桜の残る花の寺も捨て難い | 西行庵といえば「吉野 奥千本」を思い出す人も多い(同名ですから) 「願はくは・・・」の歌碑もあちこちにあるのかも (先頭へ) |
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(57)紫式部 めぐり逢て 見しやそれ共 分ぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな | 蘆山寺(写真)は紫式部が源氏物語を書いたところ(実家)として知られる 源氏物語の題材にゆかりの地はたくさんある | 紫式部の墓は堀川通にある | |
(35)紀貫之 人はいさ こころもしらず 故郷は はなぞむかしの かに匂ひける | 紀貫之を偲ぶにはハイキングが必要 延暦寺から坂本方面へ降りて(不動坂、写真)行った山の中に「墓」があります 写真の地点からさらに700m歩く(実はもはや大津市です) | 「古今集」の撰者で有名な「紀貫之の痕跡」を探すのは難しいようです この歌は「長谷寺」(奈良県初瀬)を回想して詠んだらしい |
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(62)清少納言 よをこめて 鳥の空音は はかる共 よにあふさかの 関はゆるさじ | 長年宮中で過ごした清少納言が晩年隠棲したのが泉涌寺(写真)近くの月輪 泉涌寺近くに父清原元輔(42)の山荘があったためか 枕草子の題材にゆかりの地はたくさんある | 歌碑は泉涌寺仏殿脇にある 「あふさかの関」は「蝉丸」(上)と同じところ (先頭へ) |
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(12)僧正遍昭 あまつ風 雲のかよひ路 吹とぢよ 乙女のすがた しはしとゞめむ | この歌は在俗のときの作、その後僧正となり元慶寺(山科、がんけいじ)を創立した 歌碑も元慶寺にある(写真) | ||
(56)和泉式部 あらざらむ 此よの外の 思出に 今ひとたびの あふ事もがな | 才女和泉式部が出家後「東北院」(神楽岡)に住み、ここに手植えした軒端の梅(写真、伝説かも)が今も見られる 「軒端の梅」は清凉寺にもある | 勿論今咲く梅は「和泉式部手植え」であろうはずはない でも歌は切なく、才女の「切々たる女心」が伝わってくる花である |
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(11)参議篁 わたのはら 八十嶋かけて 漕出ぬと 人にはつげよ あまのつりぶね | 小野篁と言えば「冥界の弁官」ですから、ゆかりの地は六道珍皇寺と嵯峨福生寺です。 写真は六道の辻にある六道珍皇寺 | ここ歌は「隠岐に遠流されるおり、難波から船出する」ときに詠んだもの 小野篁の墓は堀川通に(紫式部と並んで)ある (先頭へ) |
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(16)中納言行平 立別れ いなばの山の 嶺におふる まつとしきかば 今かへりこむ | 行平はこの歌を読んで因幡守に赴任、帰任後奨学院(写真その址地)を創設した | ||
(66)大僧正行尊 諸共に 哀と思へ 山桜 花より外に 知人もなし | この歌は修行で大峰山(奈良県)に入ったときに詠んだもの 行尊は大僧正になってから、平等院(写真)を本寺にしたため平等院僧正と呼ばれた | ||
(3)柿本人丸 足引の 山鳥の尾の しだりおの ながながし夜を ひとりかもねん | 人麻呂は平安京以前の歌人なので、京都に痕跡があるはずもないが 歌聖を祀る神社にその姿を見せる 写真は仙洞御所内の「柿本社」 | 人麻呂信仰は厚く、他にも「猿田彦神社」に合祀されている 住吉神社の摂社にも「人丸神社」がある (先頭へ) |
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(1)天智天皇 秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつゝ | 天智天皇は近江(大津宮)に遷都した人だから、山科もよく歩いたはず 天智天皇陵は山科にある(写真は三条通から見た天智天皇陵) | この歌は「山科」とは関係ない | |
(36)清原深養父 夏の夜は まだ宵ながら 明ぬるを 雲のいづくに 月やどるらむ | 清原深養父は晩年補陀洛寺(左京区静市市原町、小野小町終焉の地とも)を建立した 写真は補陀洛寺山門前の寺標 | この寺には小野小町関連の史跡しか残っておらず、建立した清原深養父を偲ぶのは難しい (先頭へ) |
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(99)後鳥羽院 人もおし 人も恨めし あぢきなく よをおもふゆへに 物思ふ身は | 後鳥羽院は隠岐の島で火葬されたが(島に火葬塚が残る)、遺詔により大原陵(写真)に遷された | この他、院御所であった五辻殿でも偲べるか |
歌人(詠み人) と 歌 | ゆかりの地の「写真」 | ゆかりの地の「説明」 | 補足 |
(17)在原業平朝臣 ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに からくれなゐに | 業平と言えば十輪寺を思い出す人も多いだろうが 住んでいたのは現在の間之町通御池南東角(写真) | 「龍田川」は奈良県斑鳩町 | |
(13)陽成院 つくばねの 峰より落る みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる | 陽成天皇は18歳で譲位して、この地(夷川通小川の一帯、写真)を上皇の終の住処(陽成院)とした 当然この歌はここで詠まれた | またここは源氏物語の二条院に比定され、紫の上ファンが多く訪れる 元良親王(20)は陽成院の第一皇子だからここに住んだか |
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(83)皇太后宮大夫俊成 世中よ みちこそなけれ おもひ入 やまのおくにも 鹿ぞなくなる | 藤原俊成(定家の父)は歌道の家として御子左家を確立した(家系としては長家(道長の子)が初代、4代が俊成) その邸宅「御子左第(みこさてい)」は三条通大宮の北東一帯にあった(現在は「八坂神社又旅所」(写真)などになっている) | 御子左家のライバルは「六条家」(左京大夫顕輔(79)、藤原清輔朝臣(84)など) 寂蓮法師(87)は俊成の兄の子で御子左第で過ごした (先頭へ) |
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(68)三条院 心にも あらでうき世に ながらへば こひしかるべき よはの月かな | 三条天皇は在位5年にして藤原道長に迫られて退位し、この地(東洞院通御池の北西一帯)に上皇の居(三条院)を構えた 現在は「ハートンホテル京都」(写真)などがある | 歌にも「退位の口惜しさ」が滲み出ている 退位後も1年で崩御し、この邸宅は菅原孝標(更級日記著者の父)が買い受けた |
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(53)右大将道綱母 歎つゝ ひとりぬるよの 明るまは いかに久しき ものとかはしる | 藤原兼家の妻で蜻蛉日記の著者(道綱の母)は立派な邸宅(西洞院通一条の南東一帯)に住んでいた 現在お住みの山本家も「国登録有形文化財」(主屋) | 歌は美人の妻が夫藤原兼家の不行跡を窘めたもの | |
(76)法性寺入道前関白太政大臣 和田の原 こぎ出てみれば 久堅の くもゐにまがふ 奥津白波 | 平安末期政権の真っただ中で活躍した藤原忠通は主に勘解由小路烏丸第(下立売通烏丸の北西一帯)に住んだ 現在は有栖川宮旧邸「有栖館」(写真、国登録有形文化財)などがある | 勘解由小路は今の「下立売通」に相当 法性寺は東福寺の近く(九条通寄り)にある (先頭へ) |
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(45)謙徳公 哀とも いふべき人は おもほえで みのいたづらに なりぬべき哉 | 藤原伊尹(これただ)は父「師輔の邸宅一条殿」(大宮通一条の南東一帯)を引き継いだ 現在は和菓子の名店「塩芳軒」(写真、歴史的意匠建造物)などがある | 「一条殿」はその後「一条天皇の里内裏」になった そのため紫式部はここで一条天皇の中宮彰子の相手をしたはず |
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(91)後京極摂政太政大臣 きりぎりす なくや霜夜の さ莚に 衣かたしき ひとりかもねん | 藤原良経は中御門京極第(椹木町通寺町の南西一帯)という邸宅に住んだ 現在は「京都御苑」になってしまって偲ぶ余地がない(写真、今は麩屋町通の北の果て、突き当たりになっている) | 確かにこの邸宅は京極(中御門大路の東端)にある | |
(43)権中納言敦忠 あひ見ての 後の心に くらぶれは むかしは物を おもはざりけり | 藤原敦忠は枇杷殿(烏丸通出水の北東一帯)と呼ばれる邸宅に受け継いだ 現在は「京都御苑」の「出水口」を入った先になる(木札が建てられている、写真) | 「枇杷殿」は元々藤原長良の邸宅で、枇杷があったとか その後、基経→仲平→明子→師氏→明子の娘→敦忠→敦忠の娘→源延光→延光の娘→済時→済時の子→朝光→藤原道長→妍子→禎子(よしこ)内親王→藤原寛子と継承され、一条天皇・三条天皇の里内裏にも (先頭へ) |
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(52)藤原道信朝臣 明ぬれば くるゝものとは しりながら なをうらめしき あさぼらけかな | 藤原道信は兼家の養子に入り、その後子道兼(七日関白)に引き取られたので道兼の町尻殿(町尻通二条の北東一帯)と呼ばれる邸宅に住んだと思われる 現在は「三井越後屋京本店記念庭園」(写真)などがある | 「町尻(まちがみ)小路」は今の「新町通」に相当 養子に入った経緯などは栄花物語に出てくる |
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(30)壬生忠岑 有明の つれなくみえし 別れより 暁ばかり うきものはなし (41)壬生忠見 恋すてふ 我名はまだき 立にけり 人しれずこそ 思ひ初しか | この二人は親子で、当時「壬生寺」のあった「左京五条一坊七町」(壬生大路五条坊門上ル)に住んでいたため「壬生」姓になったか | 後に壬生寺は現在の「左京五条一坊二町」(朱雀大路五条坊門上ル、写真)に移転した (先頭へ) |
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(14)河原左大臣 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆへに みだれそめにし 我ならなくに | 河原左大臣(源融)の豪邸は河原院(左京六条四坊)は「十一町〜十四町」に広がるものだった。その址地には石碑が建っている | 恵慶法師(47)の歌は、この豪邸が後に荒れ果てたのを見て詠ったもの |