60.小式部内侍
上の句順 下の句順 (INDEX)
おほえやま |
いくののみちの |
とほけれは |
またふみもみす |
あまのはしたて |
大江山 |
いくのゝ道の |
とほければ |
まだふみもみず |
天のはしだて |
大江山 |
生野の道の |
遠ければ |
まだふみも見ず |
天の橋立て |
- ■歌について
- 才を妬まれ、母の作った歌を読んでいると貶され、母が丹後に下っているときの歌合わせで、自作を主張した機知に富んだ歌。
- ■出典
- 金葉集雑上
- ■作者略歴
- ?-1025。橘道貞と和泉式部との間の子。母と共に一条院皇太后彰子(上東門院)に仕え、小式部と呼ばれた。関白藤原教通、頭中将藤原公成らに愛され、子を設けた。病で母に先立ち
20代後半で没した。
私の調べた「作者略歴」(母「和泉式部」が有名なので、ある程度推察できる)
- 長徳3年(997)生まれ、父は橘道貞で間違いない。
- 出生年については、いろいろな説があるが、私は「和泉式部の研究」から長徳3年(997)説を採った。
- 出仕は、寛弘6年(1009)母と一緒に(同時に)したらしい(母の出仕時期は間違いない)。中宮彰子の下へ。13歳ということになる。
- 出仕後、母はその後の男関係で多忙であったため、小式部内侍に関する記録が少なくなっている。
- 最初の男性は「藤原頼宗」(正暦4年(993)生まれ、4歳年上)。いつ頃のお付き合いか、はっきりしない。期間は短かったようです。
- 藤原頼宗は道長の次男。寛弘9年(1012)頃(小式部は16歳)なら右近衛権中将。歌心はあったようです。
- 「藤原教通」(長徳2年(996)生まれ、1歳年上)。教通が彰子皇太后宮権大夫だった時期(寛弘9年(1012)〜長和4年(1015))に「仕事場」で知り合い、お付き合いしたようです。
- 藤原教通は道長の五男。後に太政大臣。
- 教通との間には2人の子供(「静円(長和5年(1016)生まれ)」「女子(光円法師母)」)ができた。
- 教通が「病気欠勤明けた」とき『死ぬばかり 嘆きにこそは 嘆きしか 生きて問ふべき 身にしあらねば』(死ぬほど心配でしたが、奥様の手前見舞いもできませんでした)と送った、ことが知られている。
- 「藤原範永」(正暦4年(993)生まれ、4歳年上)。治安3年(1023)範永が春宮少進(春宮・敦良親王=彰子皇太后の子)のときやはり「仕事場」で知り合ったのだろう。
- 藤原範永も「そこそこの歌詠み」で話が合ったか。範永との間にも女子(後に藤原頼宗家女房(尾張))を産んでいる。
- 最後の男性は「藤原公成」(長保元年(999)生まれ、2歳年下)。公成が左中将のとき(治安3年(1023)〜万寿3年(1026))お付き合いしたか。
- 万寿2年(1025)11月、公成との間に「頼仁」を産み、小式部は出産がもとで亡くなった。
- 「和泉式部の娘」ということで多くの男たちが言い寄ったか、母和泉式部の血を受け継いだか、男女関係は激しかった。そしてわずか30歳足らずで一生を終えた。
- 母和泉式部は小式部の突然の死を聞いて「とどめおきて 誰を哀れと 思ふらむ 子は優りけり 子は優るらむ」と嘆いた。
- 小式部の和歌を貶したのは藤原定頼。和泉式部が丹後に下っていた頃ですから「寛仁4年(1020)〜治安3年(1023)」の間の出来事。
- 定頼には他に多くの女性がいたので、小式部とは「戯言仲間」だったと思う。男女関係はない。
- 「内侍」の呼び名ですが
- 「掌侍」に任官したとの説もありますが、これ程「子供を産んでいては」仕事ができなかったはずで、「内侍近くで働いていた」ということではないかと思う。