(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
藤原彰子の一生
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藤原道長
の娘で
一条天皇
の中宮になり
二代の国母
になって「87歳」まで生きた「藤原彰子」は「天下第一の母」と称されたが
想像以上に「窮屈な一生」を送ったようです。
「藤原彰子」(朧谷寿著、ミネルヴァ書房)に準拠して整理した。
彰子の
生涯の主な記録
永延2年(988)「藤原道長の長女」として誕生。当時、道長は23歳、権中納言。母
源倫子
は25歳、場所は
土御門殿
(道長の自邸)。家系図は
こちら
。
長保元年(999)「一条天皇」に入内し、長保2年(1000)2月25日(13歳)「
一条天皇中宮
」に。最大のライバル定子(中宮(永祚2年(990)冊立))と「一帝二后」(史上初)となった。
立后から「8年」が過ぎて
寛弘5年(1008)9月11日(21歳)一条天皇の第二皇子敦成親王、寛弘6年(1009)11月25日(22歳)一条天皇の第三皇子敦良親王を産む。
長和5年(1016)1月29日(29歳)敦成親王が9歳で践祚(
後一条天皇
、このとき道長は摂政に)、長元9年(1036)4月17日(49歳)敦良親王が践祚(
後朱雀天皇
)し、二代の国母となった。
承保元年(1074)10月3日(87歳、時の天皇は曾孫の
白河天皇
)崩御。場所は
法成寺阿弥陀堂
。
宇治陵
に埋葬された。
夫一条天皇は寛弘8年(1011)、父道長は万寿4年(1027)、長男後一条天皇は長元9年(1036)、二男後朱雀天皇は寛徳2年(1045)、孫の
後冷泉天皇
は治暦4年(1068)、孫の
後三条天皇
は延久4年(1072)に亡くなっているから、多くの人を看取る人生だった。
藤原彰子の姿
「栄花物語」によれば
「色白の肌に丸い頬
身の丈に余る黒髪
小柄ゆえに若々しく
一見か弱そう」
とある。
「紫式部日記絵詞(ミネルヴァ書房本の表紙)」に見ることができる
彰子の
居住したところ
幼少時代は、当然生まれた実家「
土御門殿
(道長の自邸)」。
実家であるから、事あるごとに「里帰り」した。
子供(後一条天皇、後朱雀天皇)はここで産み、子供の幼少期はここで育てた。
中宮の時代は、これも当然「内裏」で過ごした。
長保2年(1000)10月11日に還幸したときも長保5年(1003)10月8日に還幸したときも「
藤壺
(飛香舎)」に入ったとの記録があるから、内裏では概ね「藤壺」で生活していたと思われる。
一条天皇の時は
内裏火災が3回
もあり、里内裏の「
一条院
」「
東三条殿
」「
枇杷殿
」に遷ったこともある。
(上述したように)
実家「土御門殿」での生活時間も結構多かった。
一条天皇退位(24歳)後は
(退位後すぐに崩御したので)
皇太后になって「一人で枇杷殿」に遷ったらしい。
長和5年(1016)(29歳)長男の後一条天皇が9歳で即位すると、これを世話するために内裏の「
弘徽殿
」に遷った。
即位の儀式では後一条天皇と一緒に「高御座」に登ったり、後一条天皇が行幸するときには「同輿」したりした。
ということで、
後一条の代
には「
彰子が政事のことにも口を挟んだ
」ようです。
後一条天皇成長後は「土御門殿」「
高陽院
」などに居住した。
万寿3年(1026)1月29日(39歳)には出家し「
上東門院
」の院号宣下を受けた。
父道長が亡くなると、長元3年(1030)8月21日(43歳)に
法成寺
に
東北院
を供養した。
晩年は
長暦元年(1037)(50歳)のとき、孫娘(亡き後一条天皇の皇女)二人(
章子内親王
(後に後冷泉天皇の中宮)
と
馨子内親王
)を引き取って「土御門殿」に住まわせる世話を焼いた。
長暦3年(1039)5月7日(52歳)には法成寺で再出家し「
法成寺東北院
」を女院御所とした。
寛徳2年(1045)閏5月15日(58歳)
(土御門殿は一杯なので)
京外の「
白河院
」に遷った。
天喜6年(1058)2月23日(71歳)「法成寺」が焼失し、弟の
頼通
が「阿弥陀堂・五大堂」を供養し、康平4年(1061)7月21日(74歳)彰子が再度「東北院」を供養した。
生涯は「藤原家の邸宅」と「内裏」に終始した
と言える。
最も心安く住めたのは、父道長の邸宅=生家「
土御門殿
」と父道長が建立し彰子自身が供養した「
法成寺東北院
」であったろう。なにかの因縁か両所は近隣している。
「土御門殿」と「法成寺」の近隣関係
「碑の建っている個所」を現在のMap上に表示してみた。この地域に
愛着
があったか
彰子が
平安京以外に訪れたところ
初めて他出したのは、寛弘2年(1005)3月8日(18歳)
大原野神社
。中宮としての行啓。勿論、父道長(左大臣)が供奉している。
次が、11月25日(30歳)後一条天皇の「賀茂神社(下社・上社)御幸」に
同輿
して行幸。
遠くへ出たのは、治安元年(1021)10月14日〜15日(34歳)後一条天皇の奈良「春日神社御幸」に
同輿
して行幸。初の泊りがけでの外出となった。
最初にして最後の「長い他出」は、長元4年(1031)年9月25日から10月4日(44歳)は「
石清水八幡宮
・
(大阪)
住吉大社
(28日)
・天王寺」
参詣
。弟の関白頼通らが随行している。
遊興であったのか、「なにかの祈願」であったのかは不明。
結局のところ
(すぐ近くの賀茂社参拝も含めて)
4度寺社参拝に都を出ただけ
の窮屈な一生だったと言える。
(江戸時代の)
大原野神社
石清水八幡宮
彰子を
取り巻いた女流歌人
父道長は『一条天皇が彰子の住む「藤壺」に頻繁に顔を出しやすくする』ため「藤壺」を
文芸サロン
化しようと企画した。
その1つの策が「
多くの女流歌人を集める
」ことだった。多少の推測を交えて「その状況」を作図してみた。
(注)赤染衛門の「1012以降」は傍に仕えたわけではなく、しばしば御用を伺いに罷り出ていた状況。
赤染衛門
紫式部
和泉式部
小式部内侍
伊勢大輔
彰子の和歌
「多くの女流歌人に囲まれていた」割には「特に和歌が上達したわけではなかった」ようです。和歌のいくつかを列挙した。
逢ふことも 今はなきねの 夢ならで いつかは君を または見るべき(新古今和歌集)
寛弘8年(1011)夫一条天皇が崩御した後、夢を見て詠んだ和歌。「逢うことはできないでしょうが、夢では逢えますよね」。
唐衣 たちかはりぬる 春の夜に いかでか花の 色を見るべき(新古今和歌集)
寛仁3年(1019)父道長が出家した後、衣替えの着物が贈られてきた時のお礼の和歌。「お父様が墨染の衣を着ているのに私だけ花やかな着物を着ることはできませんわ」。
一こゑも 君につげなむ 時鳥 この五月雨は 闇にまどふと(千載集)
長元9年(1036)長男の後一条天皇が崩御した時の追悼の和歌。「今日の五月雨に子を想いながら暗闇の中を彷徨っています」。
うつつとも 思ひわかれで 過ぐるまに 見しよの夢を なに語りけむ(千載集)
寛弘8年(1011)夫一条天皇が崩御した後、赤染衛門から弔いの和歌が送られてきたのに対する返答歌。「貴女も夫を亡くしてお互いに夢で亡き夫と語り合えたらいいですね」。
思ひきや はかなく置きし 袖の上の 露をかたみに かけむものとは(新古今和歌集)
万寿2年(1025)早世した小式部内侍の着物を形見として、母和泉式部から譲り受けた時のお礼の和歌。「形見の袖の上に貴女(母)と私の2人が涙で濡らすとは思いもしませんでした」。