(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

内裏           (INDEX:索引へ)


大内裏のさらに内側にあった内裏(天皇の住居としての御殿、皇居とも言う)
庶民からかなりかけ離れているのでかなり想像しにくい

そこで現在設置されている「碑・説明板(以下、碑と略す)」を使って内裏を想像しようと試みた。(大内裏についてはこちらへ

(参考)「内裏の平面図」については京都市の文化史資料で見ることができます。
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いろいろな史料を参考にしてイメージ図を作成してみた
厳密性・正確性は危うい(ご容赦)
現在の地図上に、内裏を想像できるをプロットすると、上の図のようになる(左のイメージ図も正確ではないし、碑も施設の一部を指しているだけなので、必ずしも一致しない)

記号建物名の所在地説明の写真
建礼門浄福寺通下立売下ル宮門(中重(なかのえ)を囲む7門)の一つ。内裏から南面する格式高い門で、天皇専用の通用門になっている。

同様の形式京都御苑で見られる。

説明板は、「二条北小学校」の門の脇に建っている。
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紫宸殿下立売通浄福寺西入ル【広辞苑第六版】から
内裏の正殿。朝賀・公事を行う所であったが、後に即位などの大礼も行なった。
南面して設けられ、9間の母屋の四方に廂があり、殿の中央やや北寄りに玉座を設け、その東には御帳台がある。
北廂から廊で清涼殿に通じ、階の左右に左近の桜、右近の橘がある。

同様の形式京都御所で見られる(安政2年(1855)造営)
説明板は、「酒屋 小田政」さんの軒に架けられている。
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清涼殿下立売通千本東入ル【広辞苑第六版】から
天皇の常の居所で、四方拝・小朝拝・叙位・除目・官奏などの公事も行なった。
紫宸殿の北西にある。東面した9間四面の入母屋造。

同様の形式京都御所で見られる。

説明板は、民家の窓の前に建っている。
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承明門下立売通浄福寺西入ル閤門(内重(うちのえ)を囲む12門)の一つ。「建礼門」を潜ってすぐにある。紫宸殿の前庭に通じる

閤門については門院が詳しい。

石碑の位置は少し北西過ぎる、浄福寺通=建礼門の北にあるべき。
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宜陽殿浄福寺通下立売上ル【広辞苑第六版】から
内裏の殿舎の一つ。紫宸殿の東にあり歴代の御物を納める。

石碑と説明板は、「民家とガレージ」の間に建っている。
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綾綺殿浄福寺通下立売上ル【広辞苑第六版】から
内裏の殿舎の一つ。仁寿殿の東、宜陽殿の北にあり、沐浴・斎服着御の所。「りょうきでん」と読む。

石碑と駒札は、「ショップ&カフェ 綾綺殿」の前に建っている。
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蔵人所町屋下立売通千本東入ル清涼殿の西南に置かれた蔵人所とその関連施設。この建物の北端に蔵人頭(蔵人所の長官、近衛中将も兼務することが多く頭中将とも言われた)の宿舎が置かれた。

「蔵人」は「天皇の側近」で、天皇の機密事項も取り扱うため、内裏で寝起きした。

説明板は、マンション「クロード」の入口の壁に架けられている。
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記号施設名の所在地説明の写真
承香殿浄福寺通出水下ル西入ル後宮七殿の一つ(位置的には紫宸殿/仁寿殿の北)。その東庇には天皇の書物を保管する「内御書所」がある。

承香殿女御としては「斎宮女御」とも呼ばれた徽子女王(村上天皇)が有名、源氏物語の六条御息所のモデルになった。

石碑と説明板は、棟貸し宿「承香殿 西対」の前に建っている。
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弘徽殿出水通千本東入ル後宮七殿の一つ(位置的には承香殿の北西)。後宮の中心となった。清和・陽成天皇は一時的にここを住居にした。

源氏物語では桐壺帝の女御=弘徽殿女御(光源氏の母=桐壺更衣をいじめ殺した)がここに住んだ。後に光源氏と結ばれた朧月夜(弘徽殿の妹)もここに。

石碑と説明板は、長屋(山中油店所有)の脇に建っている。
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藤壺(飛香舎)土屋町通出水下ル

(千本通と浄福寺通の
間の通り)
後宮五舎の一つ(位置的には弘徽殿の西隣、渡廊下一つで「清涼殿」の行ける)。格は下がるが、後宮の中でも重要な(お気に入りの人を置いた)舎であった。

源氏物語では桐壺帝の女御(中宮)「藤壺」(光源氏との関係が「話の中心軸」になっている)がここに住んだ。

説明板は、すぐ北の梅壺(凝華舎)と一体化して「民家玄関の壁」に架かっている。
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梨壺(昭陽舎)浄福寺通出水下ル東入ル後宮五舎の一つ(位置的には温明殿の北)。他の舎の命名と同様に「庭に梨が植えてある」

歴史では村上天皇の中宮「藤原安子」が梨壺女御になった。後一条天皇の折、東宮敦良親王が住居して、東宮御所として使われた時期もあった。有名なのは「後撰和歌集」がここで編まれたことで、その撰者を梨壺の五人と呼んだことであろう。

石碑と説明板は、「民家と駐車場」の間に建っている。
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桐壺(淑景舎)出水通浄福寺東入ル後宮五舎の一つ(位置的には梨壺の北、後宮の中では「清涼殿」に最も遠い)。後宮の中では最も身分の低い人が置かれる。

源氏物語では桐壺更衣=光源氏の母がここに住んだ(これが「話の布石」になっている)。「雨夜の品定め」の舞台にもなった。

歴史では三条天皇の女御「藤原原子(定子の妹)」が桐壺に。

説明板は、「内田蝋燭店の境界壁」に架かっている。
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記号施設名の所在地説明の写真
内侍所下立売通智恵光院西入ル【広辞苑第六版】から
宮中の賢所の別名。神鏡を安置し、内侍(内侍所の女官)がこれを守護したからいう。平安時代には「温明殿」の中にあり、「温明殿」では毎年12月吉日を選んで、その庭上で神楽が催された。

「温明殿」の中に「内侍所(=賢所)」があった(上のイメージ図では「併設されていた」としている)。「内侍所(=賢所)」の方が有名。

説明板には「温明殿(内侍所)」とあり、ガレージの開閉門に架かっている。
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蘭林坊土屋町通出水上ル

(千本通と浄福寺通の
間の通り)
内裏の最北西部にある。宮中の御物、御書などを納める所。
閤門(承明門など)の外側、宮門(建礼門、建春門など)の内側にある。

聚楽第の近くに「豊臣秀勝」も邸宅を造った(とされる)

石碑は、「くみひも 円山」の玄関先に建てられている(説明板は(光って見えないが)豊臣秀勝の説明)
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建春門智恵光院通出水下ル宮門(中重(なかのえ)を囲む7門)の一つ。内裏から東面するので「日の御門」とも呼ばれ、皇后・皇太子の通用門になっている。

同様の形式京都御苑で見られる。

説明板は、「松林寺」の前に架けられている。その隣の石碑には「聚楽第南外濠跡」と刻まれている。
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