(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

大内裏           (INDEX:索引へ)


大内裏皇居である内裏を中心として、その周りに政務や儀式などを行う諸官庁を配した一郭、宮城とも言う)
庶民からはかけ離れているので想像しにくい

そこで現在設置されている「碑・説明板(以下、碑と略す)」を使って大内裏を想像しようと試みた。(内裏についてはこちらへ

(1)皇居に示したように「平安時代の大内裏」を対象とする。
(2)「大内裏」の“ぼんやりとしたイメージ”は勘解由小路に示した。
(3)「大内裏」の“大雑把なイメージ”は門院に示した。
(参考)「大内裏の平面図」については「大内裏図考証(寛政9年(1797)、裏松光世)に始まり、今では「広辞苑(無料検索)」や「コトバンク」で検索すれば「平面図」が見られます。
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『故実叢書』(明治32年(1899)頃発刊)の「京城洛図」(勘解由庁が無いので弘仁15年(824)以前の内裏と考えられる、大内裏図考証の一環)をベースにイメージ図を作成してみた現在の地図上に、大内裏を想像できるをプロットすると、上の図のようになる。(左のイメージ図も正確ではないし、碑も施設の一部を指しているだけなので、必ずしも一致しない)

記号施設(官庁)名の所在地説明の写真
朱雀門千本通押小路上ル大内裏南面中央の正門。「平安京中央」の朱雀大路から大内裏に入る入口。

名前は「長安の例」に倣った。

石碑と説明板は、「本家八ッ橋 本店」の南、千本通に面したところに建っています(写真の左に見えるのが「千本通」≒「朱雀大路」)
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朝堂院丸太町通千本西入ル【広辞苑第六版】から
大内裏の正庁八省百官が政務を執行した所。天皇が臨御して視告朔の儀を行い、また、即位・大嘗会・朝賀などの大儀を行なった。
平安京では大内裏の南中央に位置し、朱雀大路の正面に臨む。
その正殿を大極殿といい、その後ろに小安殿があり、また十三堂・二十五門があった。八省院とも。

石碑は、「りそな銀行千本支店」の前に建っている。
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大極殿千本通椹木町上ル【広辞苑第六版】から
朝堂院(八省院)の北部中央にあった正殿。殿内中央に高御座を置く。ここで天皇が政務を執り、または賀正・即位などの大礼を行なった。
平安京のは東西11間、南北4間。碧瓦で棟の両端に金銅の鵄尾があり、前方の東西に蒼竜・白虎の二楼を置く。

同様の形式平安神宮で見られる。

大きな石碑が、「内野児童公園」の中に建っています。
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豊楽院丸太町通七本松東入ル

(厳密には
丸太町通の一本南の通り)
【広辞苑第六版】から
朝堂院の西の宮殿大嘗会・節会・射礼・競馬・相撲などが行われた。

石碑と説明板は、豊楽院を想像させる「広い空地」(旧丸太町通に面して)を囲うフェンスの前に建っている。
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宴の松原出水通千本西入ル

は松原の東端
説明板から
豊楽院の北側にあった広場で「縁の松原」とも記され、南北約430m、東西約250m。「宴の場」が有力説だが、記録がない。「内裏の建て替え用の場」との説も。

広い場所(松林)の東端には勘解由使庁、後には真言院(紫色の「A」)が建てられたりした。

石碑と説明板は、「石材 芳村屋」の角に建てられている。
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一本御書所下立売通智恵光院西入ル【広辞苑第六版】から
平安時代、宮中におかれ、世に行われた書籍を天覧用に各1本別に写して献進したものを納めた所。「いっぽん の ごしょどころ」と読む。
「南所」と「内豎所」の間にあり、上のイメージでは省略した。

平治の乱のとき後白河上皇はここに幽閉された。

石碑と駒札は、「山中油店」の東側に建てられている。
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待賢門猪熊通下立売下ル禁門(大内裏を囲む14門)の一つ。東面にある。
禁門については門院が詳しい。

平治の乱の折、平重盛と源義平がこの門の外側で一騎討を繰り広げた。
待賢門院璋子は「傾国の美女」、白河上皇・鳥羽天皇両方のお気に入りで保元の乱の因をなした。西行からも慕われ法金剛院に隠れた。

「平安京創始待賢御門跡」と彫られた石碑は、「瓦屋 堤瓦磚」の前に建っている。
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記号施設(官庁)名の所在地説明の写真
左馬寮丸太町通御前東入ル【広辞苑第六版】から
御牧および諸国の牧場から貢進する官馬の調習・飼養、穀草の配給、飼部の戸口・名籍などをつかさどった役所。左馬寮と右馬寮とに分かれていた。「さま の つかさ」と読む(ことが多い)
西面の禁門「藻壁門」のすぐ内側にあった。

石碑と説明板は、「朱雀第二小学校」の敷地内(丸太町通に面して)建っている。石碑は「平安宮西限 藻壁門跡」とある。
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大蔵中立売通浄福寺東入ル朝廷の倉庫。だから広い。大内裏の北側はほとんどが「大蔵」。その中に大蔵省(律令制の八省の一つ。諸国から納める調・庸の出納、度量衡・市場価格、器具・衣服の製作などを司った)があった。

石碑と説明板は、「正親小学校」の北東隅(大蔵省は、大蔵の西端にあったという説もあるが、石碑は大蔵の東端に建っている。

その後、ここに豊臣時代の聚楽第が造られた(ので大蔵省跡の石碑のすぐ東に聚楽第址の石碑も並んでいる)
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主水司丸太町通日暮西入ル【広辞苑第六版】から
宮内省に属し、供御の水・粥・氷室のことをつかさどった役所。「しゅすいし」「もいとり の つかさ」「もんど の つかさ」と読み方が難しい。

石碑は、「丸太町コーポ」(丸太町通に面して)の前に建っている(写真の右に見えるのが丸太町通)
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中務省丸太町通智恵光院西入ル

【実際の中務省は丸太町通
より一本南にあったはず】
【広辞苑第六版】から
八省の一つ。天皇の側近に侍従し、詔勅の文案を審署し、宣旨・上表の受納・奏進、国史の監修、女官の名帳および叙位、諸国の戸籍・租税帳および僧尼名籍などをつかさどった。「なかつかさしょう」「なか のまつりごと の つかさ」「なか の つかさ」などと読む。

説明板は、マンション「パインフィールド二条城」の入口に置かれていて、「中務省東面築地跡」とある。
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太政官竹屋町通千本東入ル【広辞苑第六版】から
八省諸司および諸国を総管し、国政を総括する最高機関。政務審議部門として@左大臣・右大臣・大納言(のち中納言・参議・内大臣が加わり公卿と呼ばれる)、その事務局としてA少納言・外記・史生、行政執行・命令部門として弁官(左右のB大中少弁など)の3部門によって構成されていた。当時は「だいじょうかん」と呼ばれていた。

説明板は、「京都市児童福祉センター」の前に建てられている。
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民部省美福通竹屋町下ル【広辞苑第六版】から
八省の一つ。主計寮・主税寮を管轄し、戸籍・租税・賦役など全国の民政・財政を担当。「たみ の つかさ」と読むこともある。

説明板は、「二条中学校」の東の塀の前に建てられている。
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式部省美福通押小路上ル【広辞苑第六版】から
八省の一つ。国家の礼儀・儀式・選叙・考課・禄賜などのことを司った(つかさどった)。古い読み方では「のり の つかさ」。

説明板は、「朱雀高校」の東門の脇に建っています。
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治部省旧二条通御前東入ル【広辞苑第六版】から
八省の一つ。姓氏を正し、五位以上の継嗣・婚姻、祥瑞・喪葬・外交などをつかさどり、また、被官として雅楽寮・玄蕃寮・諸陵司・喪儀司が属した。古い読み方では「おさむる つかさ」。

説明板は、「朱雀第六小学校」の南側の校門の脇に建てられている。
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造酒司丸太町通七本松西入ル【広辞苑第六版】から
律令制で、宮内省に属し、皇室の用に供する酒・醴(あまざけ)・酢などの醸造をつかさどった役所。「さけのつかさ」と読む。

石碑と駒札は、「京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)」の入口脇に建っています。石碑には「造酒司倉庫跡」とある。
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