(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

院政時代「台風の眼」になった3人の女院           (INDEX:索引へ)


応徳3年(1086)院政が始まって〜保元元年(1156)保元の乱」が起こり、平家が全盛を極める時代
その背後には歴史の「台風の眼」となった「3人の女院」がいる。
その「3人の女院」について調べてみた。


親王・天皇・上皇・法皇と変遷するので同一性を考慮して「(代数)天皇名」で、俗名・内親王・皇后となるので「女院名」で記述した。

待賢門院(72)白河の寵姫 美福門院(74)鳥羽の皇后 八条院(74)鳥羽の娘

法金剛院三条西殿西行待賢門院堀河
clickすれば大きな画像clickすれば大きな画像clickすれば大きな画像clickすれば大きな画像
創建当初の遺構としては「青女の瀧」が残るのみ。西行の足跡は見当たらない三条西殿では、(72)白河・(74)鳥羽と三人で同居した。待賢門院は二条富小路殿、春日殿にも文治3年(1187)「御裳濯河歌合」すでに達観待賢門院の周りには、和歌の上手い女房達もいた


clickすれば大きな画像(74)鳥羽の夫人は3人のみ記載
  (皇后泰子、中宮璋子、皇后得子)

(75)崇徳
  保元の乱で讃岐に流され
  陵は讃岐「白峯陵」clickすれば大きな画像

(77)後白河の夫人は4人のみ記載
  (女御滋子、源懿子(よしこ)、高階栄子、高倉成子(しげこ)



clickすれば大きな画像「院政時代」の八条・九条あたり

平頼盛「池殿」
  この位置に「美福門院御所」があった
  (74)鳥羽は足繁く通った
  元々は藤原顕隆の「八条町尻第」
  美福門院没後、平頼盛へ

東八条殿
  「八条院御所」
  周囲に「八条院領」も多い

西八条第
  西の方には「大きな平家の屋敷」ができた