(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
式子内親王
(INDEX:索引へ)
期間番号 | 期間 | (主に)居住した場所と主な事柄 | その期間に詠まれた和歌 | 関連する写真 | 補足 |
1 | 久安5年(1149)生誕〜 (11歳になるまで) | 生まれた場所は諸説あるが(@三条高倉殿(3番で後述)、A三条万里小路第(現三条柳馬場の北東)) 私は「三条高倉第」(四条四坊八町、現三条高倉の南東)」が有力と考えている。 ここは「旧待賢門院御所」で「父の後白河が元服」した場所でもある。 久寿2年(1155)父後白河帝が即位。 | 「三条高倉第」(旧待賢門院御所、写真、四条四坊八町)で生まれたとしても、御所内でも育児されたと考えるのが自然。 保元元年(1156)保元の乱 平治元年(1159)平治の乱 |
||
2 | 平治元年(1159)10月24日賀茂斎院卜定〜 (約10年) | 第31代賀茂斎院として紫野院に。 永暦2年(1161)賀茂祭の斎王に。 潔斎生活を強いられるが、和歌を詠む女房達との交流はあったようで、藤原俊成の指導を受けた形跡がある。 仁安2年(1167)には後白河上皇の御幸もあった。 | しめのうちは 身をもくだかず 桜花 をしむこゝろを 神にまかせて(風雅和歌集) 交際のあった「建礼門院右京大夫」に斎院(の誰か)が贈った歌(式子の歌でないかも、神=賀茂の神)。 | 賀茂(紫野)斎院 ここで約10年の潔斎生活をした(写真は「跡」)。 現在は櫟谷七野神社(船岡山東麓)の中に跡を残す。 |
|
3 | 嘉応元年(1169)7月26日(病のため)斎院退下〜 (約12年) | 成子が後宮退出の際(平家全盛期)成子が受領した「三条高倉殿」(三条四坊四町、高倉宮とも、現三条東洞院の北東)に退下後帰った(四条殿を経たとの説も)。 「好子、休子」(共に伊勢斎宮から退下)と同居、還俗した以仁王は「八条院ワ子(後述)」の猶子になっていて両家を行き来していたか。 治承4年(1180)4月以仁王、平家打倒の令旨を高倉宮で発す。 | (304)うごきなく なほ万代を 頼むべき はこやの山の 峯の松風(千載集) 後白河法皇五十の賀(安元2年(1176))で詠んだ歌(はこやの山=上皇)。 治承5年(1181)正月に藤原定家が参上した(初対面)。 | 高倉宮 以仁王が平家打倒の令旨を出した場所、ということで立派な石碑が建っている。 式子内親王が生まれた「三条高倉第」と同一とする説もあるが、私は別と考えている。 |
|
4 | 養和元年(1181)9月27日〜 (約3年) | 安元3年(1177)(3月)成子死去に伴い高倉宮を返上し、養和元年(1181)父方(後白河院)の「萱御所」(in法住寺)に移る。 治承5年(1181)閏2月平清盛逝去で世情混沌に。 寿永2年(1183)7月平家都落ちの混乱時に、以仁王猶母の八条院ワ子らと太秦山荘、八条殿などに一時避難。 | (91)伝へ聞く 袖さへぬれぬ 浪の上 夜深くすみし 四つの緒の声(前小斎院御百首) 平家敗戦の報で詠んだ歌(寿永4年(1185)頃か)。 養和元年(1181)九月挨拶に来た俊成・定家に筝を聴かせる。 | 「萱御所」は「法住寺殿」(写真は法住寺殿蹟)の中にあった。 (御所は数か所あったらしく、その中のどこに移ったかは不明) 平家が隆盛の頃、六条〜八条は新開発された(含む法住寺)。内裏からは遠く、毎日「平家の臭い」がしたであろう。 |
|
5 | 元暦元年(1184)年末〜 (約5年) | 上記一時避難の縁か元暦元年(1184)「東八条殿」(八条三坊十三町、現八条烏丸の北東)に居住。 巨大荘園の持ち主八条院ワ子(あきこ)、姉「好子」、以仁王の娘「三条姫宮」と4人で同居。 元暦2年(1185)3月平家滅亡。 文治元年(1185)8月准三后の宣下を受ける。 この間に八条殿で開かれた法然の講話を聞いた。 | (173)思ふより 見しより胸に 焚く恋の 今日うちつけに 燃ゆるとや知る(玉葉集) (石丸晶子は)この歌は「法然を一目見たときを回想して詠ったもの」と解説している。 文治3年(1187)「千載集」成立。 | 「東八条殿」跡の碑はJR新幹線京都駅構内案内所にある(写真)。 戦乱を避け内裏からはかなり南外れに移って寂しかったろうと思う。周辺はすべて八条院領(この後南朝に伝領される)であった。 |
|
6 | 文治6年(1190)はじめ頃〜 (約2年) | 式子の八条院呪詛(という仕組まれた)事件が起こり、後白河法皇から「白河押小路殿」(現仁王門東大路の少し西側)を借用して一人でここに移った。 この頃出家したらしい(法名=承如房)。 建久3年(1192)3月13日後白河法皇崩御、「大炊御門」(8番で後述)「白河常光院」を遺産相続。 | (1)春もまづ しるく見ゆるは 音羽山 峰の雪より 出づる日の色(前小斎院御百首の巻頭歌) 音羽山(曼殊院の東にある山、別名てん子山)を見ることができる「押小路殿」で詠んだと思われる。 | 「白河押小路殿」は現在の寂光寺(写真)あたり。川向こうであるが、院政期の副都心でもあった。 西隣に同じく後白河院所有の「金剛勝院」もあり、そこで出家したか(出家場所は想像)。 |
|
7 | 建久3年(1192)5月〜 (約4年) | 後白河崩御に伴い押小路殿を出ることになったが、「大炊御門」には関白藤原兼実が居座っていたため、後見人「吉田経房邸」(当初「吉田別邸」、後に「勘解由小路邸」)の世話になる(居候)。 建久5年(1194)6月仁和寺の道法から「十八道戒」を受ける。「建久百首集」成る。 この頃法然に対面。 | (325)斧の柄の 朽ちし昔は 遠けれど ありしにもあらぬ 世をもふるかな(新古1672) 「後白川院かくれ給ひて後、百首歌に」と詞書されているから、この頃(建久4年(1193))詠んだか。 建久7年(1196)定家、家司になる。 | 「勘解由小路邸」はわかっていないが、経房の義父「藤原成親」が継承していた「一条三坊十三町」(現下立売烏丸の南東、現下立売御門(写真))が推定される。 ここから真っすぐ東へ行けば「吉田山」で「吉田別邸」(位置不明)にも近い。 |
|
8 | 建久7年(1196)12月20日〜 正治3年(1201)1月25日死去 (約4年) | 兼実が立ち退き建久7年(1196)年末漸く自前の邸宅「大炊御門邸」(二条四坊十町、現丸太町柳馬場の東南)へ。 建久8年(1197)3月後鳥羽天皇、大炊御門邸で蹴鞠。 正治元年(1199)5月病を得る。 正治2年(1200)9月「正治百首集」成る。 正治3年(1201)年初めに法然から長い返書あり。 | (309)八重にほふ 軒ばの桜 うつろひぬ 風よりさきに とふ人もがな(新古137) 大炊御門邸の八重桜を詠い、惟明親王(高倉天皇の第三皇子、経房の後の後見人「公時」の娘婿)に贈った歌(建久8年(1197))。 | 式子内親王は「白河常光院」(現在の白河院あたり)に葬られたらしいが法勝寺焼失後、墓もわからなくなった。 謡曲「定家」は信じないが、定家葛の塚(写真、これが墓か)にはロマンを感じる。 |
(歌番号) 作品 | 補足説明 |
(023)忘れめや あふひを草に 引きむすび かりねの野べの 露のあけぼの(新古182) | 「あふひ」=「葵」、斎院のことを回想して詠んだ |
(053)それながら 昔にもあらぬ 月影に いとどながめを しづのをだまき(新古367) | 斎宮繋がりの「伊勢物語」からの本歌取り |
(085)恋ひ恋ひて そなたに靡く 煙あらば いひし契りの 果てとながめよ(新後撰) | 若き日の「忍ぶる恋」の歌、まだ生硬 |
(121)春過ぎて まだ時鳥 かたらはぬ 今日のながめを とふ人もがな(玉葉) | 「時鳥(ほととぎす)」の歌が多い、時鳥に重ねているのは誰か |
(145)秋の夜の 静かにくらき 窓の雨 打ち嘆かれて ひま白むなり | 「秋の歌は拙い」と言われる式子の歌の中でも、この歌なら |
(172)沖深み 釣するあまの 漁火の ほのかに見てぞ 思ひ初めてし | 「忍ぶる恋」の歌もそろそろ |
(203)山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水(新古3) | 「松の戸」は「山の中の家」を思わせる=>「吉田別邸」か=>建久4年(1193)制作か |
(209)ながめつる けふは昔に なりぬとも 軒端の梅は われを忘るな(新古52) | 定家が「正治初度百首」(後鳥羽院)に「式子内親王の最秀歌」として選んだのがこの歌 |
(255)桐の葉も 踏みわけ難く なりにけり 必ず人を 待つとなけれど(新古534) | 訪れてくる人もないと嘆く「余情溢れる秀歌」として知られている |
(291)暁の ゆふつけ鳥ぞ あはれなる 長きねぶりを 思ふ枕に(新古1810) | 「長き眠り」=「死」を意識し始めたか |
(318)玉の緒よ 絶なば絶ね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする(新古1034) | 百人一首に採られた最も有名な「忍ぶる恋」歌 |