(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
法性寺と法成寺
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同じような名前の「お寺」。共に「藤原道長」が関連していて、文献にはよく出てくるが、実体が見えないので
区別がつきにくい
。
時折、混同する。ということで調べてみた。
法性寺
の方が古い
お寺で「
ほっしょうじ
」と読む
建立は延長2年(924)
藤原忠平が「公家恒例被行脚読経の寺」として
京外(南東)
に建立、没後忠平はここに葬られた。
潅頂堂に安置された
千手観世音菩薩像
は
国宝
(現存する)。
藤原道長
は五大堂を発願し(1005)、寛仁2年(1018)には病でこの寺に参籠している。
源氏物語
第50帖「東屋」にも出てくる。
藤原忠通
(1097-1164)の時、多くの堂塔・伽藍が建てられ、「北は九条大路、南は伏見稲荷社北境、東は東山山麓、西は鴨川」に至る
大伽藍
(現在の東福寺を含む)になった。
このことから、忠通は
法性寺殿
と呼ばれ、小倉百人一首
76番
『和田の原 こぎ出てみれば 久堅の くもゐにまがふ 奥津白波』も「法性寺入道前関白太政大臣」となっている。
1147には忠通の正室・藤原宗子が御堂を建立(後の最勝金剛院(東福寺の塔頭)となる)。
その後
建仁2年(1202)九条兼実がここで出家し「後法性寺殿」と呼ばれた。
承元元年(1207)法難で流罪になった
法然
が立ち寄っている。
延応元年(1239)九条道家が寺域に
東福寺
を建立、逐次東福寺に浸食される。
江戸時代の初期には、廃寺になった模様。
明治維新後
旧名を引き継いで
旧地に再建
され
今も残る
。
浄土宗
西山派「大悲山一音院法性寺」(尼寺)。
事前に申し込めば、本尊(国宝)も拝観できる。
(現在の)浄土宗「法性寺」
小倉百人一首
76番
最勝金剛院
東山区本町16丁目(伏見街道沿い)
「説明板」が建っている
法性寺入道
前関白太政大臣(藤原忠通)
後法性寺殿
九条兼実の廟所「八角堂」
法成寺
は若干新しい
お寺で「
ほうじょうじ
」と読む
治安2年(1022)藤原道長が建立
1020藤原道長は自邸「土御門殿」(左京一条四坊十五〜十六町)の東外れの
京外(東)
に「無量寿院」(京極御堂、中河御堂)を建立。
1022金堂五大堂を建て落慶法要を行い「法成寺」と改めた。
万寿5年(1028)道長は
浄土教を信じながら
「無量寿院」で(この寺で)亡くなった。
その後
何度も地震などの災害で被災し、建長6年(1254)以降は再建されず
跡形も無い
。
「法成寺址」の碑
藤原道長
府立「鴨沂高校」の塀沿いに
碑を残すのみ
「紫式部日記絵巻」から(背を見せる男性)
(藤原道長とは無関係だが似た名前の)
法住寺
というお寺もあり「
ほうじゅうじ
」と読む
建立は永延2年(988)
と古い
藤原為光(後に太政大臣)が妻・娘の菩提を弔うために、自邸を「法住寺」に改めた。
長元5年(1032)焼失後、そのまま放置された。
脚光を浴びさせたのは
後白河上皇
1158譲位した後
応保元年(1161)
この地を
院御所(
院政
)
とし
法住寺殿
と呼んだ。
なぜこの地を選んだのかはよくわかっていない。
この後、天皇の行幸・平徳子の入内など
歴史の舞台
に頻繁に出てくる。
1164には法住寺域内に
蓮華王院
(本堂があの有名な
三十三間堂
)を造営。
その後
寿永2年(1183)木曽義仲の襲撃で焼失し、以降は再建されなかった。
江戸時代、蓮華王院・法住寺陵(後白河法皇の御陵)などは
妙法院が管理
し続けた。
明治維新後
、法住寺陵は宮内省所管になり、蓮華王院は妙法院所管(継続)、一部の寺域が「大興徳院」(新設)所管となった。
明治30年(1897)「大興徳院」は旧名の
法住寺
と復称された。
今も僅かに痕跡を留めている
。
「法住寺殿址」の碑
(現在の)法住寺
蓮華王院
(三十三間堂)内に残る
蓮華王院、養源院(1594創建)などに囲まれている
3つの寺の「位置的関係」(イメージ)
(注)「寺域」の大きさは「最大時」を想像
赤線は「平安京」の境界
当時は平安京の中に寺は造れなかった