(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
長講堂
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五条の南を歩いていたら「長講堂」と刻された石標を見つけた。どこかで聞いた名前のような気がした。
後で調べてみたら、歴史の授業で聞いた「院政時の長講堂領」に関係があるらしい。
京都の町にはこうした『歴史の跡』が残っている。これらを見つけ・考える散策は楽しい。
ということでこのページでは“不勉強で”間違いも多いでしょうが、『経済的観点からの院政』について私説を述べる。
- 【私説】
- 平安時代も後期になると、寄進地系荘園が増えてきた。これが院政を生み出した背景のすべてである。
- 藤原氏は寄進を受け、経済力を増していった。
- さらに「不輸・不入」の特権により、「税」以上の“実質実入り”を得ていた。
- これに対し、天皇家は「国衙領からの税」しか収入が無いので、相対的に(絶対的にも)経済力が弱まっていった。
- かつ天皇家は“私的な”「荘園」を持つことはできない。
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(初期)院政の構造(天皇と上皇・法皇の関係) | 鳥羽離宮跡の「院政の地」碑 |
- そこで『白河天皇は考えた』。藤原氏と同じように経済力を付けられないかと。その『経済力を付ける仕組みが院政』応徳3年(1086)である。
- 院政とは
- まず天皇を退位(譲位)する(その後は「上皇」「法皇」となる)。
- そうすると、天皇ではなくなるので
- 寄進地系荘園の寄進を受けられるようになる。
- これで“実質実入り”が多くなる。
- 荘園を守るためには、抬頭したがっている平氏系武家を“うまく”利用する。
- 天皇としての“公務”が無くなるので、時間を自由に使って“策謀”に励める。
- 後任の天皇は、自分の子供なので、容易に“政務”に口を挟むことができる。
- 院政は、白河−鳥羽と続き、上皇系の寄進地系荘園が増え続けた。これが八条院領である(「八条院」名義で荘園を蓄積した)。
- 上皇家は、藤原氏に対抗できる経済力が身に付き、藤原氏を抑えることができた(藤原関白が弱体化)。その副作用として武家の抬頭を許した。
- 歴史的には、これで律令制に基づく天皇制が崩壊したと言える。
- 結果的にはこの後鎌倉幕府が成立して天皇家の政治権力は失墜するので、院政は天皇制政治の末期に咲いたアダ花とも言える。
- 『長講堂』の話はこれからです。
- 「八条院領を持つ鳥羽上皇」は、お気に入りの美福門院が養育している(後の)二条天皇に「八条院領」を含めて跡を譲りたかった。
- 美福門院の子でない故に「八条院領」を伝領できない“宙ぶらりん”のでも権勢欲のある(後の)後白河上皇は自らせっせと寄進地系荘園の寄進を受け続けた。これが長講堂領である。
- 「長講堂」(下記に説明あり)は荘園集めの単なる名義であり、長講堂そのものに“意味がある”わけではない。
- 歴史的には、後白河法皇が亡くなったのはこの地(六条西洞院殿)であり「元六條御所」と呼ばれる所以である。
- 所領の大きさで言えば、後から集めだした長講堂領は少し少なく、八条院領:長講堂領=3:1だったらしい。
- この所領の歴史はまだ続きがあります。
- 「八条院領」は、亀山/後宇多天皇の大覚寺統/南朝に伝領され
- 「長講堂領」は、後深草/伏見天皇の持明院統/北朝に伝領された。
- これらが一本化されずにいたことも南北朝動乱の背景の一つであろう。
- 「八条院領」が大きかったので、南朝は“潜伏しながらも”長く続いた、とも考えられている。
京都市の資料によれば
長講堂は後白河上皇(1127〜92)の持仏堂で、もともとは西洞院六条の六条院(六条御所)に所在していた。
長講堂には膨大な荘園が附属しており、上皇の没後も王家(持明院統)の経済基盤として重視されたが、
火災などによりたびたび移転し、天正年間(1573〜92)に豊臣秀吉(1536〜98)が寺町を整備した際に現在地に移転した。
この石標は、元は六条院に所在していた長講堂を示している。
とある。
- 鳥羽(離宮)近くに「陵」を持つ天皇は院政絡みばかり。
- 逆も真なり=院政絡みの天皇陵は鳥羽にある。堀河天皇だけ龍安寺の近く(崇徳は配流先の讃岐)。