(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
(南北)両統迭立期(前期)の里内裏
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以降、 持明院統(北朝)は赤系統 大覚寺統(南朝)は青系統で表示する 天皇名の前は「代数」 「天皇・上皇」は省略する |
持明院統 | 89後深草(深草北陵) | 92伏見(深草北陵) | 93後伏見(深草北陵) | 95花園(十樂院上陵) |
火葬後、翌年「深草法華堂」に納められた。法華堂が深草北陵に改められた。写真は「とはずがたり」の表紙 | 「89後深草」と同じ措置。法華堂は火災などで、現在残るのは元禄年間に再建。かつては「深草十二帝陵」と呼ばれた | 持明院で崩御後、嵯峨野で火葬され、法華堂に納められた。写真は「深草北陵」の制札(後深草、伏見、後伏見と並ぶ) | 十樂院の上の山で火葬されたとの記録はあるが、所在不明に。妙心寺、黒谷の説もあったが、幕末ここに治定された | |
大覚寺統 | 90亀山(龜山陵) | 91後宇多(蓮華峯陵) | 94後二条(北白河陵) | 96後醍醐(塔尾陵) |
亀山殿で崩御後、裏山で火葬され、分骨埋葬された。その1個所=浄金剛院(今は廃絶)が陵となった(88後嵯峨と同所) | 大覚寺で崩御後、蓮華峯寺の傍の山地に火葬・埋葬された。以後、大覚寺が管理、そのまま治定されている | 高倉殿で崩御、北白川殿で火葬、その火葬の墳丘に埋葬された。その後荒廃。江戸末期この地(京都大学の脇)に治定された | 吉野・如意輪寺の後ろに「円丘を高く築いて」陵とされた。そのまま治定された。写真は江戸時代の「山陵図絵」 |
(表の凡例) 持明院統(北朝)系の里内裏・院御所は 赤系統の背景 大覚寺統(南朝)系の里内裏・院御所は 青系統の背景 にした 「丸に炎」は里内裏・院御所が火災焼失したことを示す 「丸に崩」はその地で崩御したことを示す 「新造遷幸」は焼失建物が再建されて戻ったことを示す |
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(図の補足) 「五条院」(五条通大宮の北東角) 「持明院殿」(新町通上立売上ル、京外) は少し遠いので省略した 「押小路殿」=90亀山 「春日殿」=92伏見 「花山院」(幽閉)=96後醍醐 が院御所にしたとの記録もある |
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持明院統 | 持明院(名前の基となった持仏堂) | 長講堂(持明院統の所領の名義) | 冷泉富小路殿 | 常盤井殿(下御霊神社) |
持明院を御所にした「92伏見」がここで崩御(文保元年(1317))した | 「89後深草」が伝領した。往時は「西洞院六条」にあったが、現在は「富小路通六条上ル」にある | 「両統迭立期」は「89後深草」以降持明院統が長く使った。文保元年(1317)鎌倉幕府の再建で「二条富小路殿」となった | 「90亀山」の監理(往時の井戸の名は常盤井)だが、「89後深草・93後伏見」が使った。現在は下御霊神社が遷座している | |
大覚寺統 | 大覚寺(名前の基となった寺) | 八条院(大覚寺統の所領の名義) | 五条院 | 大炊御門殿 |
池の先に「91後宇多」が崩御(元亨4年(1324)6月)した大覚寺「宸殿」が見える | 「90亀山」が「安嘉門院」から強引に伝領した。現在はJR京都駅八条口中央案内所に碑を残すのみ | 88後嵯峨が「90亀山」のために造ってくれた御所。碑(「舊趾」)は「御前通高辻」の角に建っている | 「二条高倉殿」碑は見つからない。この石碑には「大炊御門万里小路殿」(「90亀山」以降大覚寺統が長く使った)とある |
笠置山(京都府相楽郡) | 花山院(東洞院通下立売下ル) |
元弘元年(1331)96後醍醐は京から逃亡して、ここ笠置山に潜幸した | 建武3年(1336)96後醍醐は花山院(往時の藤原忠平邸、左京一条四坊三町、現在は宗像神社)から脱出した |