(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

(南北)両統迭立期(前期)の里内裏           (INDEX:索引へ)


鎌倉時代末期の「両統迭立時代」(89代後深草(仁治3年(1242))〜96後醍醐)両統がどの里内裏を使ったかを調べることで、両統の関係性について大胆に推測してみた。

この時期皇居は無くなっており(嘉禄3年(1227))再建放棄)里内裏ウロウロしたはずである。

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持明院統89後深草(深草北陵92伏見(深草北陵93後伏見(深草北陵95花園(十樂院上陵
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火葬後、翌年「深草法華堂」に納められた。法華堂が深草北陵に改められた。写真は「とはずがたり」の表紙「89後深草」と同じ措置。法華堂は火災などで、現在残るのは元禄年間に再建。かつては「深草十二帝陵」と呼ばれた持明院で崩御後、嵯峨野で火葬され、法華堂に納められた。写真は「深草北陵」の制札(後深草、伏見、後伏見と並ぶ)十樂院の上の山で火葬されたとの記録はあるが、所在不明に。妙心寺黒谷の説もあったが、幕末ここに治定された
大覚寺統90亀山(龜山陵91後宇多(蓮華峯陵94後二条(北白河陵96後醍醐(塔尾陵
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亀山殿で崩御後、裏山で火葬され、分骨埋葬された。その1個所=浄金剛院(今は廃絶)が陵となった(88後嵯峨と同所)大覚寺で崩御後、蓮華峯寺の傍の山地に火葬・埋葬された。以後、大覚寺が管理、そのまま治定されている高倉殿で崩御、北白川殿で火葬、その火葬の墳丘に埋葬された。その後荒廃。江戸末期この地(京都大学の脇)に治定された吉野・如意輪寺の後ろに「円丘を高く築いて」陵とされた。そのまま治定された。写真は江戸時代の「山陵図絵」
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(表の凡例)

持明院統(北朝)系の里内裏・院御所は
    赤系統の背景
大覚寺統(南朝)系の里内裏・院御所は
    青系統の背景  にした

丸に炎」は里内裏・院御所が火災焼失したことを示す
丸に崩」はその地で崩御したことを示す
「新造遷幸」は焼失建物が再建されて戻ったことを示す
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(図の補足)
「五条院」(五条通大宮の北東角)
「持明院殿」(新町通上立売上ル、京外)
は少し遠いので省略した

「押小路殿」=90亀山
「春日殿」=92伏見
「花山院」(幽閉)96後醍醐
が院御所にしたとの記録もある
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持明院統持明院(名前の基となった持仏堂)長講堂(持明院統の所領の名義)冷泉富小路殿常盤井殿下御霊神社
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持明院を御所にした「92伏見」がここで崩御(文保元年(1317))した「89後深草」が伝領した。往時は「西洞院六条」にあったが、現在は「富小路通六条上ル」にある「両統迭立期」は「89後深草」以降持明院統が長く使った。文保元年(1317)鎌倉幕府の再建で「二条富小路殿」となった「90亀山」の監理(往時の井戸の名は常盤井)だが、「89後深草・93後伏見」が使った。現在は下御霊神社が遷座している
大覚寺統大覚寺(名前の基となった寺)八条院(大覚寺統の所領の名義)五条院大炊御門殿
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池の先に「91後宇多」が崩御(元亨4年(1324)6月)した大覚寺「宸殿」が見える「90亀山」が「安嘉門院」から強引に伝領した。現在はJR京都駅八条口中央案内所に碑を残すのみ88後嵯峨が「90亀山」のために造ってくれた御所。碑(「舊趾」)は「御前通高辻」の角に建っている「二条高倉殿」碑は見つからない。この石碑には「大炊御門万里小路殿」(「90亀山」以降大覚寺統が長く使った)とある
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笠置山(京都府相楽郡)花山院(東洞院通下立売下ル)
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元弘元年(1331)96後醍醐は京から逃亡して、ここ笠置山に潜幸した建武3年(1336)96後醍醐は花山院(往時の藤原忠平邸、左京一条四坊三町、現在は宗像神社)から脱出した
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