(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

(京都大事典に記載されている) 京都市の今は廃されている寺社 (廃寺)           (INDEX:索引へ)


京都には「古文書上存在した寺社」でも今は廃されている寺社は多い。

現存しないため「どう列挙したらよいか」わからない。「京都大事典に記載されているが、現在は存在しない寺社」を整理してみた。
「廃されている」と言っても「実は難しく」、名前を変えて継承されたりする寺社もある。ここではあまり几帳面には定義しないでおく。

(注1)古寺には、正式名・別名・通称がある。「京都大事典で別の項目を起こして記載している通称など」は「丸括弧付き」で記載した。
(注2)「同名の寺社」がある場合は「寺社名に後ろに丸括弧付き」で「識別できそうな単語」を付記しました。


江戸時代の「建仁寺の北東に見える安国寺利生塔
(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース)
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山城国の利生塔は「法観寺の五重塔」とされたから、図に見えるのは八坂の塔かもしれない



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雲母坂(きららざか)」に残る『雲母寺跡の碑

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「光照院門跡」の山門には今も「恵聖院の表札」が架かっている。廃絶していないのかも GoogleMapには「光照院」の奥に「恵聖院」が描かれている。廃絶していないのかも

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「江文峠」に『江文寺趾の碑』が建つ 「江文峠」は「静原と野村の間」にある

  1. 円融寺(えんゆうじ):円融天皇(後村上陵)の御願、永観元年(983)。位置は龍安寺近く。宝徳2年(1450)龍安寺創建で廃絶。
  2. 円教寺(えんきょうじ):一条天皇(円融寺北陵)の御願、長徳4年(998)。旧地は谷口円成寺町・花園円成寺町あたり。長元7年(1034)以降の記録は見当たらない。
  3. 円乗寺(えんじょうじ):後朱雀天皇(圓乘寺陵)の御願で、崩御後の天喜3年(1055)。位置は谷口円成寺町・花園円成寺町あたり。長治2年(1105)焼失。
  4. 円宗寺(えんしゅうじ):後三条天皇(圓宗寺陵)の御願、延久2年(1070)。位置は御室竪町・御室小松野町あたり。天福元年(1233)以降の記録は見当たらない。
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「円教寺・円宗寺・円乗寺」は「天皇陵」より南の方に位置していた 「円融寺」は現在の「龍安寺」の中にあった。
図は「朱山七陵」の一部

  1. 法勝寺(ほっしょうじ):白河天皇が発願し、藤原師実の土地の寄進を受けて、承暦元年(1077)落慶法要が行われた。その後八角九重塔も造られた。応仁の乱後、姿を消した。
  2. 尊勝寺(そんしょうじ):堀河天皇が発願し、平正盛など各国受領の寄進で、康和4年(1102)落慶法要が行われた。方二町で大きい。鎌倉期半ばには衰退。
  3. 最勝寺(さいしょうじ):鳥羽天皇が発願し、元永元年(1118)落慶法要が行われた。承久元年(1219)焼失。
  4. 円勝寺(えんしょうじ):待賢門院が発願し、大治2年(1127)概ね造営完了。鎌倉中期以降衰退。
  5. 成勝寺(せいしょうじ):崇徳天皇が発願し、保延5年(1139)落慶法要が行われた。承久元年(1219)で衰退。
  6. 延勝寺(えんしょうじ):近衛天皇が発願し、久安5年(1149)竣工。後白河院政下、長寛元年(1163)平忠盛が拡張に尽力。承久元年(1219)・嘉禄元年(1225)の火災で衰退。
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「院政時代の白河」の地図。必ずしも「正確」ではないが、わかる範囲で作成してみた


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小野の「碑のマーク」=『桜本寺址(収蔵庫)』、「寺のマーク」=龍沢寺













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交差点の北東角に佇む石碑、ここに寺があった










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現在は三条通(三条大橋よりも東)に石碑のみを残す





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左に「琵琶石」、右に「磐座」が祀られている 本殿に向かう参道の右側の草叢の中に「石碑(人康親王山荘跡)」が潜んでいる










  1. 証金剛院(しょうこんごういん):白河上皇が発願し、康和3年(1101)「南殿」に造営。丈六の阿弥陀如来像を安置したこと以外、記録が残っていない。
  2. 成菩提院(じょうぼだいいん):鳥羽上皇が発願し、天承元年(1131)「泉殿」に造営。泉殿には三重塔(天仁元年(1108)建立、13世紀半ばに焼失)多宝塔2基(天永2年(1111)、天永3年(1112)建立。1つは一時鳥羽天皇陵、永仁4年(1296)焼失で「陵は現在の地へ」。他方は近衛天皇陵、現在の陵は地震崩壊後の再建)があった。名跡は九品寺に継がれているようです。
  3. 勝光明院(しょうこうみょういん):鳥羽上皇が発願し、保延2年(1136)「北殿」に造営。治承3年(1179)平清盛によって後白河法皇が幽閉されたところ。阿弥陀堂は平等院を模したと伝わる(丈六の阿弥陀如来像を安置)。仁治3年(1242)火災の記録が残る。
  4. 安楽寿院(あんらくじゅいん):鳥羽上皇が発願し、保延3年(1137)「東殿」に造営。現在は、真言宗の安楽寿院が残る。
  5. 金剛心院(こんごうしんいん):鳥羽上皇が発願し、久寿元年(1154)「田中殿」に造営(釈迦堂と阿弥陀堂)。正確な位置を示すものとしてかつて金剛心院跡を示す石碑があったが、現在所在不明になっている。
clickすれば大きな画像 赤四角=殿舎(本当はもう少し大きいが、
        大体の位置を示す)


緑破線=天皇陵(当時はまだ無かった
       左から白河、鳥羽、近衛)


京都市作成の復元想像図がある

発掘調査』も進んでいる



元の図は京都市埋蔵文化財研究所が作成

  1. 善勝寺(ぜんしょうじ):寛治元年(1087)藤原親子(白河天皇の乳母)が創建。子の藤原顕季が伝領し、以降氏寺になった。建久2年(1191)頃建礼門院が大原からこの寺に戻ったという話がある。承久元年(1219)焼失、応長元年(1311)焼失では再建されず、応永32年(1425)には茶園と化した。
  2. 蓮華蔵院(れんげぞういん):永久2年(1114)白河法皇泉殿南殿)の中に造営した御堂。後に三重塔(3基)なども建立された。承久3年(1221)、寛喜元年(1229)「塔は焼失」した。現在の左京区聖護院蓮華蔵町に相当する。
  3. 証菩提院(しょうぼだいいん):大治4年(1129)白河に移転してきた。前身は、篤子内親王が天仁2年(1109)法成寺南に造営した四面堂。永久5年(1117)法成寺火災に類焼・再興後、移転。
  4. 得長寿院(とくちょうじゅいん):長承元年(1132)鳥羽上皇が平忠盛(清盛の父)に命じて造営した。「千体観音堂」は三十三間堂と同形式と伝わる(発掘調査で確認されている)。元暦2年(1185)の地震で崩壊。
  5. 宝荘厳院(ほうしょうごんいん):長承元年(1132)鳥羽上皇が造営。9体の丈六阿弥陀仏を安置した。元暦2年(1185)地震で一部倒壊、承久3年(1221)焼失。その後の沿革は不明。現在の左京区聖護院東寺領町に相当する。
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「院政時代の白河」の地図。必ずしも「正確」ではないが、わかる範囲で作成してみた

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仕伏町にある「乗願院」は「この神宮寺の観音堂」を移築したものと伝える





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「鳥居形」が描かれている山が「曼荼羅山」。仙翁寺は「この山の中」あった

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「宮内省」は現在の「都市児童福祉センターの建物」の東側にあった。太政官跡の説明版の西側