(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

清和天皇           (INDEX:索引へ)


源義家足利尊氏徳川家康らが「清和源氏」を名乗ったので「清和天皇」の名前を知っている人は多い。どんな人物だったかはあまり知られていないので整理した。

総じて言うと、藤原良房に軛を取られた皇太子・天皇時代(27年間)、自我を貫いた上皇時代(4年間)で「政事とは無縁の一生」を送ったようです。

   誕生から即位   在位中の事績   配偶者   子孫   譲位から崩御
文徳天皇の家系図
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清和天皇の姿
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良房(右)の政策を清涼殿唯々諾々と聴く清和天皇(左)(「伴大納言絵巻」(国宝、出光美術館)から)
清和天皇の家系図
clickすれば大きな画像入内時期がわかっている女御は

平寛子   貞観6年(864)8月
嘉子女王  貞観9年(867)4月
源済子   貞観9年(867)8月
源貞子   貞観9年(867)12月
忠子女王  貞観12年(870)3月
兼子女王  貞観15年(873)12月
藤原佳珠子 貞観15年(873)
源宜子   貞観18年(876)8月

皇子(親王)は

第一皇子  貞明(陽成)
第二皇子  貞固
第三皇子  貞元
第四皇子  貞保
第五皇子  貞平
第六皇子  貞純
第七皇子  貞辰
禅林寺黒谷にある清和上皇火葬塚「文久山陵図」に描かれている「水尾山陵」
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貞観5年(863)勅願寺とした通称「永観堂」。譲位後、陽成から受けた田地を(自分のものにしないで)ここに施入した円覚寺(粟田)で崩御し、黒谷(岡崎)で火葬され(文殊塔の東側に塚が残る)、「上皇の違詔」で水尾(嵯峨)に山陵を起こさず埋葬された「柵で囲われてる」ので文久(1861)以前から「山陵の位置は確保」されていたようです(水尾村民の努力か)。ただし石棺は剥き出し(ボロボロ)