(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
枕草子に出てくる「京都の光景」
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清少納言の好むところ(場所): | 野、原、里、森 | 川、淵、滝、池 | 海、島、浜、浦、崎 | 陵、関、市、井、駅 | 神、社、寺、その他 | |||||
清少納言の好むもの(自然、文化): | 季節、気候 | 植物 | 動物 | 和歌、物語、書 | 経、仏、歌、舞、笛 | |||||
清少納言の外出したところ(場所): | 菩提寺、清水寺、広隆寺、伏見稲荷大社 | 邸宅 | その他の外出 | さらに番外 |
小倉山 | 阿弥陀の峰 | 船岡 |
やっぱり小倉山(=左の山、右の山=愛宕山)が一番。藤原定家以前からよく知られていた | 清水寺本堂から子安塔先に見る阿弥陀ヶ峰 | 平安時代は都のすぐ北に「すっきり」見えたのでしょうが、今は街中 |
嵯峨野 | 瓶の原 | 石田の森 |
平安京貴族の「別荘地」として開けた嵯峨野。写真のような雰囲気の「野」を好んだのか | 「瓶の原(みかのはら)」は恭仁京が営まれた地。和歌と言葉「原」が結びついたか | 多くの人(順徳院など)に詠まれた(今でも森らしい)森。森の中には天穂日命神社がある |
大堰川 | 音無の滝 | 與謝の海 |
嵯峨野・嵐山へ出掛けた折り、大堰川が眼に焼き付いたのだろう | 来迎院の奥にある。音無川、呂川、律川となって流れる | 昔から「京都で海」を見るならここしかない、ことを皆知っていた(蕪村もしかり) |
小栗栖の陵(宇治陵) | 逢坂の関 | 飛鳥井 |
清少納言の頃には、既に藤原氏の女子「温子(よしこ)、穏子(やすこ)、安子、懐子(ちかこ)、超子(とほこ)」などが眠っていたので | 世に逢坂の関はゆるさじ、と詠うくらいだから | 現在は白峯神宮の中にある |
松尾大社 | 石清水八幡宮 | 霊山寺 |
清少納言が一番に挙げている。初の行幸をしたのが、一条天皇だからか | 122段、135段、205段などで出てくる。例祭などによく出掛けた模様 | 平安時代は「天台宗 霊山寺」だった。今は「時宗 正法寺」になっている |
秋の夕暮れ | 入日 | 雪(檜皮に残る雪) |
京都迎賓館「夕映の間」の「愛宕夕照」(綴織(つづれお)りの織物) | 愛宕山に入った(入ってしまった)夕日。雲は棚引いている(黒谷から見る) | 安楽寺山門の檜皮葺の屋根に残る雪。こんな感じがお気に入りか |
万葉集 | 法華経 | 笙 |
額田王の天智天皇挽歌『やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に・・』は万葉集に(写真は天智天皇山科陵、山科区御陵上御廟野町) | 真如堂(永観2年(984)建立)所蔵の法華経は国宝(寿永2年(1183))。清少納言は「時代的に」これを見ていない | 藤原朝忠は笙の名手。だが清少納言は朝忠の笙は聴いていない(時代差) |
法金剛院(大治5年(1130)建立) | 清水寺(宝亀9年(778)建立) | 広隆寺(推古天皇11年(603)創建) |
清少納言の頃は「天安寺」(文徳天皇発願、律宗)だった。その頃から「蓮」はあったようです | 清少納言はよく清水寺に参詣していた。参籠することも | 清少納言の頃には「聖徳太子信仰」があったのか |
小一条第 | 一条院 | 県の井戸 |
写真は北隣の枇杷殿。小一条第の「碑」は建っていない。現在の京都御苑の中にあった | 定子も一条天皇に同行しただろうから、清少納言も行ったことはあると思う | かつての「縣宮」にある井戸(和歌に出てくる)を書いたらしい。今は京都御苑内に井戸のみ残す |