62.清少納言
上の句順 下の句順 (INDEX)
よをこめて |
とりのそらねは |
はかるとも |
よにあふさかの |
せきはゆるさし |
よをこめて |
鳥の空音は |
はかる共 |
よにあふさかの |
関はゆるさじ |
夜をこめて |
鳥の空音は |
はかる共 |
よに逢坂の |
関は許さじ |
- ■歌について
- 藤原行成との恋遊びの歌交換のときの一首。斉の国の孟嘗君の故事を踏まえた頭脳的な歌。
- ■出典
- 後拾遺集雑二
- ■作者略歴
- 生没年未詳。一条院皇后定子の女房として仕えた。和漢に強く、皇后に愛された。「枕草子」の著者として有名。
- 【補】
- この歌の「逢坂の関」は(多少位置は異なるが)今も残る。
- 枕草子と京都の関係についてはこちらにまとめた。
- 清少納言の男性関係についてはこちらにまとめた(藤原行成との恋遊びの歌交換、藤原実方との恋愛など、正暦4年(993)〜長保2年(1000)、康保3年(966)生誕と推定)。
- 清少納言の実家は今熊野神社(79段)近くにあり、晩年は泉涌寺(月輪)で過ごした。
- 吉田兼好は徒然草を書くにあたって、相当清少納言を意識した。
角田文衛博士(私の尊敬する)推論による「作者略歴」
- 康保3年(966)出生説が有力。名前は「諾子(なぎこ)」の可能性が高い。
- 橘則光と結婚。天元5年(982)則長を生むが、結婚は破綻。
- 次いで「少納言・藤原信義(正暦4年(993)頃疫病で亡くなる)」と結婚し、女房として小野宮家に出仕して「少納言」と呼ばれた。
- 藤原道隆が(小野宮で働いていた)清少納言を中宮・定子の女房に抜擢した(正暦4年(993))。この期間が清少納言の絶頂期。
- 皇后定子没(長保2年(1000))後は(中宮彰子との寵争いの)敗残者意識を持ちつつ、一旦は内裏勤めを辞めた。
- 結果として「枕草子は長保3年(1001)頃完成した」と想像される。
- 辞めた後、(遥かに年配の)藤原棟世(当時摂津守)の後妻になり、娘(小馬命婦)を産み、摂津に引っ込んだ(らしい)が、定子の遺児(よし子内親王)養育のため(残党の一員として)まもなく宮中に戻った(時期不明)。さらに「よし子(女偏に「美」)」早世(寛弘5年(1008))後、脩子内親王(同じく定子の娘、長徳3年(997)〜永承4年(1049))の女房として仕えた。
- 亡くなったのは万寿2年(1025)頃(60歳前後)と推定される。
- (父元輔が残してくれた)「月輪の山荘」と「宮中」(女房としての仕事)を往復しつつ、「月輪の山荘」で亡くなった(いみじくも皇后定子の陵墓の近くである)。
- 藤原公任は清少納言が月輪に引っ込んだことを知って『ありつつも 雲間に住める 月の輪を 幾夜眺めて 往き帰るらむ』と詠んで文を送ってきた。
- この後、いく首かやり取りがあって、最後に清少納言は『おしなべて 菊としもこそ 見えざらめ こはいとはしき 方に咲けかし』と返した。まだ元気があったようです。