65.相模
上の句順 下の句順 (INDEX)
うらみわひ |
ほさぬそてたに |
あるものを |
こひにくちなん |
なこそおしけれ |
恨みわび |
ほさぬ袖だに |
ある物を |
恋にくちなん |
名こそおしけれ |
恨みわび |
ほさぬ袖だに |
ある物を |
恋に朽ちなん |
名こそ惜しけれ |
■類似語句 名こそおしけれ
- ■歌について
- 後冷泉院の永承六年(1051)内裏の歌合での歌。勿論勝ち歌。
- ■出典
- 後拾遺集恋四
- ■作者略歴
- 生没年未詳。酒呑童子を退治した源頼光の娘。相模守大江公資の妻となり、相模と呼ばれる。夫の死後、藤原定頼を初め多くの男と浮き名を流した。恋多き女としても有名。順徳院によれば、赤染衛門、紫式部、相模が女流歌人の高峰と評されている。
- 【補】
- 相模の父源頼光は和泉式部の初恋の人。
- 藤原定頼と浮き名を流したのは(作者略歴に記したように)夫・大江公資の死後ではなく、離縁前。
- 「恋の和歌」は多く詠っているが、有名と言われるほどには「恋多き女」ではなかった。
最近の研究による「作者略歴」
- 正暦3年(992)出生説が有力。母は慶滋保章の娘。
- 寛弘4年(1007)前後、清少納言の子橘則長と結婚して、三条天皇の女御藤原妍子に出仕(寛弘7年(1010)か)「乙侍従」と呼ばれた。
- (則長と別れた後、則長が陸奥守として赴任したとき)「綱たえて 離れ果てにし 陸奥の をぶちの駒を 昨日見しかな」(後拾遺和歌集)
- 長和2年(1013)頃、大江公資の2度目の妻になる。大江公資が相模守になり、共に下向した(治安元年(1021)〜万寿2年(1025)、約5年間)。
- (現在の伊勢原市日向薬師を訪れたとき)「さして来し 日向の山を 頼むには 目もあきらかに 見えざらめやは」(相模集)
- 万寿2年(1025)任期が明けて帰京。出家して「入道一品宮」となった脩子内親王(藤原定子の遺児)のもとに「相模」の名で出仕した。そこで知り合った藤原定頼と恋仲になる。
- (定頼に送った)「ことに葉に つけてもなどか とはざらん 蓬の宿も 分かぬ嵐を」(後拾遺和歌集)
- 長元元年(1028)には大江公資とは離縁となり、暫くして藤原定頼とも破局した。これを契機に「自撰歌集=相模集」の制作に励む。この歌集が評判となり、長元8年(1035)藤原頼通主催の「賀陽院水閣歌合」に出詠し、(遅ればせながら40歳を超えてから)歌壇デビューした。
- (賀陽院水閣歌合に出詠)「五月雨は 美豆の御牧の まこも草 刈り干すひまも あらじとぞ思ふ」(後拾遺和歌集)
- 永承4年(1049)(約25年仕えた)脩子内親王も没した。
- (脩子内親王がも没したとき)「時しもあれ 春のなかばに あやまたぬ 夜半の煙は うたがひもなしな」(後拾遺和歌集)
- その後、祐子内親王(後朱雀天皇の第三皇女)に女房として仕えたらしい(康平4年(1061)祐子内親王の歌合にも70歳で出詠している)。没年は定かではないが、歌合後、程なく没したか。
- (天喜4年(1056)の和歌は)「岩間もる 水にぞやどす 梅の花 こずゑは嵐の うしろめたさに」(一条皇后宮春秋歌合から)