72.祐子内親王家紀伊
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おとにきく |
たかしのはまの |
あたなみは |
かけしやそての |
ぬれもこそすれ |
音にきく |
たかしの浜の |
あだ波は |
かけじや袖の |
ぬれもこそすれ |
音に聞く |
たかしの浜の |
あだ波は |
かけじや袖の |
濡れもこそすれ |
■類似語句 袖・波
- ■歌について
- 堀河院の懸想文合(艶書合)での藤原俊忠への返し歌。
- ■出典
- 金葉集恋
- ■作者略歴
- 生没年未詳。母は後朱雀天皇(1036)の皇女祐子内親王家に仕えた小弁。散位平経方の娘、紀伊守藤原重経の妹、といわれる。他説では、藤原師長の娘ともいわれる。
「祐子内親王家紀伊」は小倉百人一首女流歌人の中で「最も経歴のわからない」歌人である。
- 父は従五位上民部大輔「平経方」、母は歌人で知られた「小弁」。
- 父=平経重という説もあるが、これは同一人物らしい。だから「平経方」でよいのだろう。
- 「紀伊」と呼ばれたことから「紀伊守藤原重経」との関係も取り沙汰されているが
- 「妹」とすると、藤原重経は平経方の子、または小弁の子になるが、そういう記録は見つからない。
- 「妻」という説もあるが、「祐子内親王家紀伊」が結婚したという記録もない。
- 長久2年(1041)の歌合に参加しているので、治安3年(1023)頃には生まれていたのだろう。
- 母・小弁の仕える「祐子内親王」に一緒に仕えた。
- 祐子内親王は、後朱雀天皇の第三皇女、長暦2年(1038)生まれ。
- 高倉第(左京一条四坊一町、現在の「京都御苑」の中)に住んだので「紀伊」もここに仕えたと思われる。
- 長久2年(1041)から仕えたとすると、「祐子内親王」が幼少(4歳頃)のときから仕えたことになる。
- 永承4年(1049)頃相模も祐子内親王に仕えたらしいので、康平4年(1061)頃(相模が没する)まで一緒だったか。
- 祐子内親王は、延久4年(1072)35歳で出家している。
- あとは「歌合」の記録しか見つからない。
- 寛治8年(1094)藤原師実の高陽院七番歌合で「朝まだき 霞なこめそ 山桜 訪ね行く間の 余所目にも見む」
- 有名な歌合が、康和4年(1102)清涼殿で催された堀河院艶書合」。藤原俊忠(俊成の父)へ返して詠ったのが「音に聞く」の和歌。
- 「高師浜」へ行ったことがあるのだろうか(この記録もない)。
- この時の和歌を中心に長治2年(1105)「堀河院御時百首和歌」が編まれた。これを手伝ったとも言われている。
- 長治2年(1105)と言えば、御主人「祐子内親王」が亡くなった年でもある。祐子内親王も未婚のままだったようです。
- この後「どうしたか」伝える記録もない。
- 永久元年(1113)「少納言定通歌合」に出詠した記録が残るのみ。
- もはや90歳近いので、この頃亡くなったか。
- 一言で言えば、ずっと祐子内親王に仕えた歌人と言うしかない。