(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

藤原道長以降の摂関家           (INDEX:索引へ)


絶頂期を迎えた藤原道長は「嫡男継承を原則に、自分の子孫で摂関を」繋いでいこうと画策した。
実態はどうであったか。

姓名就任時期(旧暦、数え年)退任時期(旧暦、数え年)摂政・関白在職天皇院政
藤原道長長和5年(1016)1.29(51歳)長和6年(1017)3.16(52歳)摂政1年強後一条
藤原頼通長和6年(1017)3.16(26歳)治暦3年(1067)12.5(76歳)摂政、関白50年強後一条、後朱雀、後冷泉
半年弱後冷泉
藤原教通治暦4年(1068)4.16(73歳)承保2年(1075)9.25(80齢没)関白7年強後三条、白河
藤原師実承保2年(1075)10.15(34歳)寛治8年(1094)3.8(53歳)関白、摂政、関白19年強白河、堀河白河(1086.11.26から)
藤原師通寛治8年(1094)3.9(33歳)承徳3年(1099)6.28(38齢没)関白5年強堀河白河
6年半堀河白河
藤原忠実長治2年(1105)12.25(28歳)保安2年(1121)1.22(44歳)関白、摂政、関白15年強堀河、鳥羽白河
藤原忠通保安2年(1121)3.5(25歳)保元3年(1158)8.11(62歳)関白、摂政、関白、摂政、関白37年強鳥羽、崇徳、近衛、後白河白河、鳥羽(1156.7.2まで)

平等院鳳凰堂賀陽院水閣歌合
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天喜元年(1053)「頼通が造営したまま」現在も国宝として残っている師通が主催した歌合の写本が残っている(国立公文書館の国書データベース)
小式部内侍clickすれば大きな画像道長以降の摂関家の家系図
(登場人物のみ)


彰子は教通と仲良かったのかも

教通のみ嫡男継承が崩れている
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小式部内侍との間には「2人の子供」を得た

花山院「京極殿」のあったあたり
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師実が再建した。これを師実の二男家忠が引き継ぎ「家忠の家系は花山院家」と呼ばれる「松殿」(4代下の基房の別業)の東隣にあった(産経新聞から)
後二条師通記師通邸での和歌
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師通も曾祖父道長に倣って日記を書いていた。一部自筆本と古写本が陽明文庫に伝わる(国宝)。写真は新写本「後二条関白記」(京都大学)大江匡房が藤原師通の邸で「遥望山桜」と題して歌った
「藤原忠実が歴史上名を遺すのは」保元の乱
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保元物語絵巻(NII)から。忠実は「合戦には参加していない」「対立図」には出てこないが「偏愛の藤原忠実」が「忠通・頼長対立」を生み出した張本人
藤原忠通法性寺
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百人一首では法性寺入道前関白太政大臣忠通が「大伽藍」を完成させた。写真は現在の「法性寺」