(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
平安時代末期(保元の乱以降)の摂政・関白
(INDEX:索引へ)
(末期)摂政・関白の推移(年は1155〜1206の下二桁を表示、*:何回か後白河の院政が停止させられたり、高倉が傀儡院政を敷いたりした) | 末期の摂政・関白を独占した藤原忠通の家系図(括弧内は、生年の西暦1100年の下二桁) |
藤原基房が新造した「閑院」跡 | 藤原基実・基通の住んだ「近衛殿」あたり |
仁安2年(1167)基房は翌年の高倉天皇践祚のために、閑院を新造した(建物を新規に造り直した) | 近衛天皇の御所の地を「忠通」以降近衛家の本邸に頂いた(明治以降は護王神社になった) |
九条兼実の日記「玉葉」 (宮内庁所蔵) | 兼実隠棲の地(月輪殿) | 後法性寺殿「九条兼実」の廟所「八角堂」 |
長寛2年(1164)〜正治2年(1200)の出来事を書いた日記 | 晩年、最勝金剛院近くの東福寺即宗院(写真)に山荘月輪殿を造り「兼実は月輪殿」とも呼ばれた | 兼実は法性寺で出家し(たことで「後法性寺殿」とも呼ばれた)、東福寺最勝金剛院の奥に葬られた。 |
和歌の師「藤原清輔」 | 父「藤原忠通」 | 弟「慈円」 | 二男「藤原良経」 |
弟の頼輔が兼実・九条邸のお隣に住んでいた縁か | 兼実は53歳のときの子、法性寺殿と呼ばれた | 青蓮院から天台座主に。「愚管抄」の著者 | 御子左家を後見したことで「後京極」と呼ばれた |