恵日山
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★★★
★★★
★
★★★
2.4
山頂の特定(
地図
)
「登山ルート」どおり登ると三ノ橋川へ降りるところで一瞬東山トレイルに出るが、すぐに東山トレイルから分かれるように三ノ橋川を詰めていく。この川沿いの道を
「絵具谷道」と名付けたい
(恵日山の項参照)。
稲荷山からの下山ルートになっている(清滝で合流し、清滝から車阪町の道はかつて「還坂(かえりざか)」と呼ばれていた)。
途中清滝で分岐することで恵日山への直登ルートにも使える。
しかし恵日山頂は泉山に続く山として宮内庁が柵で囲って管理しているため一般の人は
立ち入ることができない
。
ところが、韓国中高校正門左の道を進み、光明峰を過ぎ気持ちの良い「杣道」を進むと登れてしまう
。
杣道をどんどん進むと、やがて泉山に続く山として宮内庁が囲っている柵が現われる。その柵沿いを右に進み、右手に見える小高いピークに向かって進むと、
標高点を思わせる先に赤いペンキの塗られた杭
を見つけることができる。この地点が山頂と思われる。
柵をよく見ると、歩いている杣道は柵の内側のようである。立入禁止区域に自然と入ってしまう。現に柵沿いをさらに進むと「登山ルート」に示す柵の内側に出る。
木が生い茂っているので眺望は全くない。
地形図によれば
山頂に標高点(192m)がある
。
登頂記録
H15- 9- 6、迂闊にも半袖半ズボンで挑戦したところ、無数の蚊の猛襲を受け敢え無く敗退した。
H15-11-22、紅葉の東福寺をよそ目に雪辱した(初登頂)。
「登山ルート」に示した道は、稲荷山や三角点のある「西野山」へも続くハイキングコースになっている(ただし標識は不案内)。
恵日山
「花洛名勝図会」などの図を見ると、
東福寺の東遠く「絵具谷」の奥に高い「恵日峰」が描かれている
。
種本には、東福寺の即宗院の中の小高い山(山上には薩摩藩士の墓があり、標高72m)とあるが、高さを考えると納得し難い。
即宗院のパンフレットには「薩摩藩士の墓が恵日山上にある」と書いてある。種本はこれを“子引き”したと思われる。
「新撰京都名所圖會」(竹村俊則著)などには、薩摩藩士の墓と、絵具谷奥の高い「恵日峰」とは別に描かれている。
さらに、絵具谷を挟んで「恵日峰」と稲荷山があり、絵具谷は毘沙門谷(三ノ橋川渓谷)の東奥に続く位置に描かれている。
以上から
三ノ橋川を東に登りつめた川の北側にある標高192mのピークが恵日山
と特定できそうである。
この特定によれば
稲荷山の北に並ぶなだらかな山
となる。
読みも難しい。東福寺は「慧日(えにち)山東福寺」と説明している。
山号の読みは「えにちさん」。
山の読みとしては「湯桶読み」を避けて「エニチヤマ」としたい。
泉山のある「今熊野泉山町」(宮内庁がそのほとんどを管理している)は広く、この恵日山も「今熊野泉山町」にある。
東福寺
嘉禎2年(1236)藤原(九条)道家発願、建長7年(1255)聖一(しょういち)国師開山。東大寺と興福寺の各一字をとって寺名とした。臨済宗東福寺派大本山(末寺約360)。山号は「恵日山(慧日山)」。
三門・
龍吟庵方丈
(国宝)、禅堂・東司・浴室・愛染堂・六波羅門・月下門(重要文化財)、通天橋、開山堂、
即宗院
などが有名。
通天橋
周辺の紅葉は「唐もみじ」と呼ばれる三ツ葉もみじ(普通は五葉)で、洛南随一の紅葉の名所になっている。
通天橋
の紅葉
龍吟庵方丈
の庭(重森三玲作)
塔頭の一つ
即宗院
江戸時代の
東福寺
(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベースから)
右の山の中腹に
絵具谷
が描かれている。この山が
恵日山
か。それとも「左の山」か
東福寺の光景は
今と変わらない
。「
通天橋
」
(左中ほど)
も描かれている。左端上の「伝衣閣」は開山堂の上の層のこと
近くの仏閣神社
芬陀院
(ふんだいん)
東福寺塔頭の一つ。石の亀が動いたという鶴の庭は雪舟の作と伝えられている。
元享年間(1321-1324)定山祖禅の開基。一条家の菩提寺。
雍州府志での記述
恵日山
東福寺の上に在る。故に東福寺は慧日山と号す。
東山国有林風致計画での記述
惠日山
東福寺の上にある。
韓国中高校正門左の道から進む杣道
杣道の先にある宮内庁の柵
赤いペンキの塗られた杭のある山頂
山頂周辺に広がる竹林
東福寺跨線橋から見る恵日山(左)
即宗院内の薩摩藩士墓から見る恵日山