(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
京都古寺巡礼-索引2
(INDEX:索引へ)
神楽岡 | 聖護院 | 岡崎神社 | 平安神宮 | 満願寺 | 安楽寺 | 大豊神社 | 光雲寺 | 若王子神社 | 永観堂 | <南禅院> | 粟田神社 | 日向大神宮 | 長楽寺 | 円徳院 | |
安養寺 | 正法寺 | 興正寺霊山本廟 | 六道珍皇寺 | 六波羅蜜寺 | 清閑寺 | 正林寺 | 方広寺 | 豊国神社 | 養源院 | 新熊野神社 | 今熊野観音寺 | <龍吟庵> | 天得院 | <芬陀院(雪舟寺)> | 光明院 |
「今宮通」に面している。「楼門」(写真)を出て南に下れば、すぐ大徳寺になる。 | 秋は紅葉の名所でもある(写真は楼門前)。 | 「東門」を出れば、創業長保2年(1000)のあぶり餅屋が2軒並んでいる。これも楽しみ。 |
江戸時代の今宮神社(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
図右下隅「東門」の先に店屋が描かれていて「ちぎりだんご」(私の読みが間違っているか)と書かれている。今で言う「あぶり餅屋」である。もうこの頃は800年も続く老舗 図左「本社」に並んで「天王社」が描かれている。これが(今の)紫野大将軍社である |
額縁門は寺町通を歩くだけで見られる。「金森宗和公本塋」(墓のこと)とある。 | 額縁門を入ったところにあるカヤの大木。 | 非公開だが、境内は自由。10月には秋明菊が多く見られる。 |
「鳥居と楼門」。鳥居の右脇に「応仁の乱勃発の地」の碑が建っている。 | 「舞殿」。御霊祭(5/1〜18)に備えて「神輿」が飾られていた。 | 「楼門」前には、応仁の乱の頃から作っているからいたの水田玉雲堂がある。 |
江戸時代の上御霊神社(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
「本社」「舞殿」「楼門」「鳥居」が一列に並んでいる様は今と同じ 江戸時代には「御霊神社」ではなく最早「上御霊神社」と呼んでいたことがわかる 神社の西・南を囲むように流れているのは中川とある。「今出川」の北方向へ「北から南に流れる部分」も「中川」と呼んでいたのかもしれない |
正門。坊城通に面している。「壬生延命地蔵尊」とある。 | 本堂。正門から入って「どんつき」にある。参道の右手に見えるのが「阿弥陀堂・壬生塚」。 | 「刀傷の残る」新選組壬生屯所八木邸(写真)は、壬生寺のすぐ北にある。 |
鳥居の扁額には「幸神社」、その後の石標には「出雲路幸神社」とある。 | 拝殿(写真)の後ろにある「本殿」には「猿の神像」が置かれている(覗き込めば見える) | 平安京造営時から「置かれている石神」。触ることはできないので、離れて「拝む」のみ。 |
「神門」。今出川通に面している。正門の先に見えるのが「拝殿」。 | 「拝殿」の左に「鞠庭」、前に「右近の橘(左)と左近の桜(右)」(造りが御所に似ている)がある。 | 境内北東の「潜龍社」には(今でも飲める)「飛鳥井」、その奥に天然記念物「小賀玉」が見える。 |
三条通「三条大橋」を東に渡った所に「大きな石標」が建っている。北に遡上すると「表門」。 | 大きな本堂は安永3年(1774)建立。飛騨名工の手になる入母屋造。 | 本堂隣にある開山堂は天保元年(1830)の再建。重層入母屋造。 |
「石の大鳥居」。夏越大祓には「茅の輪(ちのわ)」が架けられる。 | 「拝殿」には「祈願の参拝者」が多い。 | 「手水舎」に置かれたお腹がふっくらした黒うさぎは、水をかけ撫でると子授け・安産のご利益があると言われている。 |
昭和3年(1928)大鳥居は神宮道「慶流橋」近くに建てられた。高さ約24m、幅約18m。 | 二条通から応天門へ向かう表参道の角に、石標が建っている。 | 「西神苑」(七代目小川治兵衛の作)の白虎池を彩る「花菖蒲」。 |
二条通から北へ、さらに冷泉通を越えると応天門がある。高さ約18m。 | 応天門を潜ると大極殿がある。この建物は平成22年(2010)重要文化財に登録された。 | 平安神宮の中の桜はどれも見事だが、写真は「南神苑」の桜。 |
神楽岡通は「今出川通の赤丸〜神楽坂通の赤丸」の南北の通り。 | 神楽岡通の西側の丘陵部に茂庵がある。最近、神楽岡は若い人にも人気がある。 | 神楽岡通からは、(左)黒谷の文殊塔、(右)真如堂の三重塔の2つが並んで見える。 |
大きな山門。「円光大師舊跡」が目立つ。 | 阿弥陀堂。保育園を隣接している。 | すぐ背後に東山阿弥陀ヶ峰が見える。 |
鉄門越しに本堂(重文)を見る。 | 六波羅蜜寺にも迎え鐘がある。 | 六道珍皇寺と六波羅蜜寺の中間にみなとや幽霊子育飴本舗がある。この辺は恐ろしい所ばかり。 |
正門。血天井の立札が生々しい。 | 本堂へ至る真っ直ぐな参拝道。「大聖歓喜天」(本堂に大聖歓喜天王像が安置)の石標がある。 | 本堂の中をよく見ると、ガラス戸越しに宗達の『杉戸絵[唐獅子図・白象図]』が(1枚)見える。 |
山門。禅寺の塔頭らしい。 | 7月には濃紫色の桔梗が枯山水庭園一面に咲く。 | 方丈廊下にある「花頭窓」から見る桔梗。 |
山門前の寺標。 | 小野小町姿見の井戸。 | 小野小町に因んで建てられた深草少将供養塔。 |
石段を進むと、立派な拝所、その奥に本殿がある。 | 「石の大鳥居」の扁額には、素盞嗚尊の別名である「鬚咫天王(しゅだてんのう)」と書かれている。 | 境内には、触れると夫婦和合や良縁が授かるという「八重垣」の石がある。 |
吉野太夫が寄進した吉野門(寛永5年(1628))。 | 吉野太夫の墓。寛永20年(1643)38歳で病没。遺言によりここに葬られた。 | 鷹峯檀林であったことを示すように、本堂の扁額には「日潮上人筆の栴檀林」の文字が残る。 |
旧「松ヶ崎村」を東西に貫く通りから、妙円寺に入るところ。鳥居を潜れば「参道」。 | 「参道」を登り詰めれば大黒堂。中に「寿福円満 開運招福」の大黒天がおれれます。 | 五山送り火の「法」の下あたりに、妙円寺がある。 |
バス通りに面している「鳥居」。ここが「入口」になる。 | 無形民俗文化財「三役相撲」が行われる「相撲場」と「拝殿」(花の天井の本殿は拝殿の後ろ)。 | 社務所に架かっている「花の天井の模写」(写真は一部、本物はもっと色彩豊かです、撮影不可)。 |
江戸時代の愛宕寺(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース) | |
創建のまま、江戸時代もまだ六波羅蜜寺のすぐ西にあった 図は江戸時代のもの(六波羅にあった)で「おたぎでら」との送り仮名があるが、説明には「等覚山念仏寺」とある |
扁額には単に「梅宮」とある。 | 「東神苑」の茶席・池中亭の周囲に咲く「皐」。源経信の歌は「梅津の里の風景」を詠ったもの。 | 「北神苑」に咲く「菖蒲(あやめ)」。 |
鳥居越しに「楼門」を見る。右手背後が松尾山(標高276.1m、西京区松尾谷) | 境内に掲示されている「周辺地図」。山との関係、からと越、浄住寺、苔寺、梅宮大社、桂離宮との相互位置などがよくわかる | 一番奥、松尾山麓に位置する両流造の本殿(松尾造とも、応永4年(1397)造、天文11年(1542)大修理) |
渡月橋の先の山の中腹に多宝塔が見える。「十三詣り」の帰りには、渡月橋を渡り切るまで「振り返ってはいけない」との言い伝えがある。 | 本堂。今や「十三詣りの寺」。 | 珍しい電電宮。IT・電気通信関係企業からの寄進が多い。 |
山門(昭和48年(1973)再建)に至る石段。 | 伝如意輪観音像が安置されている「本堂」の前庭。 | 寺の周りには静かな西山の風景が拡がる。遠くに小塩山が見える。 |
平成10年(1998)奉納の「正面大鳥居」。 | 「大鳥居」を抜けると寛永15年(1638)八条宮智忠親王によって築造された「八条が池」。 | 社殿(本殿)へ向かう「参拝路」。 |
「城南鳥居」越しに「拝殿」が見える。 | 「古代の祈りの場」のような場所が残っている。現在、何に使われているのか不明。 | 鳥羽離宮に住んだ白河法皇らは、ここから「熊野詣に出立」したらしい。駒札が建っている。 |
正面入口にあたる「鳥居」と「石標」。 | 「本殿」は横からはこう見える。永禄7年(1564)造営、天明4年(1784)再建(現在に至る)。 | 境内にある「大クスの木」。先代の木があったらしく、古くは「森ノ大明神」と呼ばれていた。 |
「拝殿」、本殿よりやや新しい。「切妻造」の両妻に庇を付けた造りになっている。 | 拝殿の裏手にある「本殿」、現存する最古の神社建築。「一間社流造」の社殿が3つ並んでいる。 | 境内摂社の中で最も大きい「春日社」、正式には「宇治上神社摂社春日神社本殿」。 |
「鳥居」越しに見る「中門」と「本殿」。「拝殿」はこの「鳥居」の手前にある。 | 「本殿」は横からはこう見える。「三間社流造、檜皮葺」。 | 宇治の名水「桐原水(きりはらすい)」、宇治上神社の境内で湧く。ここでは「手水」に使われている。 |
「琵琶湖山城疎水」から続く「参道」。 | 境内の正面に位置し、十一面観音立像(重文)を安置する「観音堂」。 | 「琵琶湖疎水の北側に移設」された状況を示す案内図。右に山科疏水がある。 |