(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
(平安京との)交通路
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駅路名 | 所属する国名(時代によって国名も変化する、ある断面(9世紀前半)で捉えた) (先頭へ) | |
(A) | 東海道 | (伊勢、志摩、伊賀)、(尾張、三河、遠江、駿河)、甲斐、(伊豆、相模)、武蔵、(常陸、下総、上総、安房) |
(B) | 東山道 | 近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽 |
(C) | 北陸道 | 若狭、越前、加賀、越中、能登、越後、佐渡 |
(D) | 山陰道 | 丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐 |
(E) | 山陽道 | 播磨、備前、美作、備中、備後、安芸、周防、長門 |
(F) | 南海道 | 紀伊、淡路、讃岐、阿波、伊予、土佐 |
(G) | 西海道 | 豊前、豊後、筑前、肥後、肥前、壱岐、対馬、筑後、日向、大隅、薩摩、多祢島(大宰府を始点とする「独立した駅路」) |
作品名 | 作者 | 旅の期間 | 主な内容(旅に重きを置いて) | 旅した国 | |
@ | 土佐日記 | 紀貫之 | 承平4年(934)〜承平5年(935) | 任国土佐から京に戻るまでの55日間の船旅を歌(全57首)を交えて仮名文で綴ったもの。 | 土佐(大津、室津)、住吉、山崎の先は淀川を遡行(歩いていない、山崎−京の間は山陽道を歩いた) |
A | 伊勢物語 | 不詳 | 9世紀後半か | ある男(在原業平)の元服から死にいたるまでを数行程度の仮名の文と歌で構成したもの。東国へ流離する「東下り」(7〜15段)が紀行風。 | 伊勢、尾張、信濃、三河、駿河、武蔵、陸奥(飛び飛び過ぎて、どう歩いたかわからない) |
B | 更級日記 | 菅原孝標の女 | 寛仁4年(1020) | 13歳の時に、父の任国上総から京に上る。その道中記(巻頭部)から始まって、・・・約40年間の半生を振り返った自伝的回想記(京の住まいは竹三条宮)。 | 上総、武蔵、相模、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、近江(東海道を90日で上洛(駅路の状況がよくわかる)) |
C | 十六夜日記 | 阿仏尼(藤原為家の後妻) | 建治3年(1277)〜弘安元年(1278) | 所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京都から鎌倉へ下った際の道中記(前編)、および鎌倉滞在の間の出来事を書いたもの(京の住まいは藤原定家京極第か、高倉邸か)。 | 羅城門ではなくは粟田口から東海道を(道筋どおり鎌倉まで)14日で歩けた(泊まった「日・場所」も記録されている)。 |
D | とはずかたり | 二条(久我大納言雅忠の女) | 正応2年(1289)〜嘉元2年(1304) | 前編は廷臣や高僧とも関係を結ぶ男性遍歴や華やかな宮廷生活を描いたもの、後編(4〜5巻)は諸国行脚の旅に出た。 | 美濃、三河、尾張、駿河、伊豆、相模、武蔵、信濃、伊勢、伊賀、安芸、讃岐、備中 |
AB『東海道・東山道』は(近江国府を経て)「草津」で分岐 C『北陸道』は「山科」で分岐 D『山陰道』は「京南分岐」で分岐(丹波国府へ向かう) E『山陽道・南海道』は(山城国府のある)「山崎」で分岐 『南海道』はその後、河内国府、和泉国府へ向かう (左図は「古代交通研究会」の著書「古代の道」(吉川弘文館)から引用) (先頭へ) |
右:巨椋池(都名所図会から、「大池」と書かれた赤▼)(先頭へ) |
『山陽道・南海道』は既存の鳥羽作道・久我畷を繋いで新たな交通路にしたのではないか、と想像している。 (1)「中島」(現在の「久我橋」近く)で「当時川幅の狭かった」桂川を渡り (2)そして「久我畷」に接続し、「久我畷」をさらに延長させ (山城国府のある)「山崎」まで伸ばした。 これが『山陽道・南海道』ではないか、と思う。 (注1)赤字の「門」=羅城門 (注2)「長岡宮跡」の大きさは推定(未完の長岡京はもっと大きかったはず) |
「山崎橋」の橋寺「山崎院」跡 | 「山崎橋」の姿 | 「山崎橋」対岸に残る「柳谷渡しの碑」 | 「橋本渡」を示す道標 |
橋寺「山崎院」も行基が宝積寺の近くに建立した。山崎橋もこの近く(現在のJR東海道線山崎駅近く)にあったと思われます | 鎌倉時代(関西学院所蔵、向岸=宝積寺) | 「八幡市橋本中ノ町(写真奥は淀川堤防)」に残る。「柳谷わたし場」「山ざき あたご わたし場」と刻されている | 京阪「橋本駅」のすぐ東に残る。「橋本渡舟場 三丁」と刻されている |
「与度渡」にある「唐人雁木旧趾」 | 「草津渡」にある「魚市場遺跡碑」 | (参考)淀川渡船所の碑 |
江戸時代「朝鮮通信使」が淀川(現在の桂川)から上陸した地点(京の都を通過させないため) | 昔からの「草津湊」に江戸時代後期「魚市場」が公設された | 「京都府久世郡久御山町西一口」(現在は宇治川へり)に残る。東北面に「是東一口村安養寺」と刻されている |
都名所図会(安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベース)に描かれている淀川 | |
宮の渡しは「與杼神社(図では左「淀姫社)、この頃は「淀城」(図の右下隅)の対岸にあった)の鳥居前から桂川(図では縦の川)を渡って「淀小橋」(図では右下「淀川に架かる橋」)の北詰に上陸する渡し」とある。渡った淀川の河岸に唐人雁木がある | 江戸時代には淀川(上の地図参照)の「三十石船」を使って「伏見−難波」間を往来する人は多くなっていた。図の「水車」は淀城に水を汲み上げるためのもの |