(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
石碑(平安京以降)(京都の街角写真から)
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「大極殿」(平安京の中心=内裏)遺址 | 史跡「船岡山」(平安京建設の基準点) | 「羅城門」(平安京の表玄関)遺址 |
千本通椹木町上ル | 北大路通今宮門前(写真の石碑は「船岡南通」) | 千本通九条上ル |
(無理やり条坊表記すれば)二条一坊一町になるか | 「千本通」「大極殿」の真北(平安京の外)にある。上空から見ると | (無理やり条坊表記すれば)九条一坊四町になるか |
「院政之地」(応徳3年(1086)白河上皇院政) | 「鳥羽離宮南殿」(同左)跡 | 「白河南殿」(嘉保2年(1095)白河上皇造営)跡 |
伏見区竹田浄菩提院町(鳥羽天皇陵近く) | 伏見区中島前山町(鳥羽離宮跡近く) | 冷泉通東大路西入ル(夷川ダム畔) |
白河天皇は譲位と同時に鳥羽に造営した院御所(鳥羽離宮or鳥羽殿)で院政を始めた。院政の続きは鳥羽上皇 | 鳥羽離宮の内、最初に造営されたのが「南殿」。この説明板の少し南には「鳥羽殿跡」の石碑が建っている | 大僧正覚円の房舎を院御所(白河御所)に改めた。その最初の建物が「南殿」。北殿は元永元年(1118)少し北側に造営された(下に写真) |
「尊勝寺」(康和4年(1102)堀河天皇建立)跡 | 「崇徳天皇(保安4年(1123)即位)欽仰之碑」 | 「得長寿院」(天承2年(1132)鳥羽上皇建立)跡 |
平安神宮の西側道東竹屋町上ル | 今出川通堀川東入ル | 冷泉通東大路東入ル(岡崎疏水縁) |
白河天皇の法勝寺(承保2年(1075))を始めに、6つの寺(まとめて「六勝寺」)が建立された(尊勝寺が2番目) | 崇徳天皇も「成勝寺」を建立したが、院政も敷けず讃岐に流された。その崇徳を悼むため明治元年(1868)「白峯神宮」の境内に建てられた | 鳥羽上皇が平忠盛に命じて建立させたお寺(白河南殿と尊勝寺の間)。三十三間堂と同等規模だったらしい |
「白河北殿」(保元元年(1156)崇徳上皇が移住) | 「法住寺殿」(永暦2年(1161)(4月)) | 「牛若丸首途乃井」(承安4年(1174)) |
丸太町通東大路西入ル | 三十三間堂境内 | 妙心寺道木辻西入ル |
白河上皇の元院御所(白河北殿と呼称)、保元元年(1156)崇徳上皇が移り住み、保元の乱で類焼した | 藤原為光の法住寺の焼失地に後白河法皇が院御所(東山御所)を造営、法住寺殿と呼ばれた。 | 牛若丸を奥州藤原氏へ届けた「金売り吉次」の屋敷跡(首途八幡宮)とは別に「首途乃井」がある |
「親鸞聖人ご誕生之地」(承安3年(1173)) | 「平重衡受戒之地(寿永3年(1184))」 | 「親鸞聖人御入滅之地」(弘長2年(1262)) |
伏見区日野大道町(日野誕生院) | 堀川通八条下ル | 松原通西洞院東入ル(光円寺) |
承安5年(1175)法然上人が浄土宗を開くことの2年前、浄土真宗の祖親鸞はここで生まれた | 一ノ谷の戦いで捕虜となった平重衡は「藤原家成の御堂(堀川通八条下ル)」で法然から戒を受けた | 「親鸞入滅の地」は、角坊別院、善法院(柳馬場通御池上ル)にもある |
「五辻殿」(元久元年(1204)後鳥羽院御所)址 | 「二条富小路内裏」(正和元年(1312))址 | 「二條殿」(二条良基(1320-1388)の邸宅)址 |
五辻通千本東入ル | 富小路通夷川下ル | 両替町通御池上ル |
後鳥羽の生母藤原殖子の弟・坊門信清が「五辻通浄福寺西入ル」に造営したもの(鎌倉時代) | 西園寺実氏→後深草天皇→1312鎌倉幕府が「里内裏」として建設。後醍醐が建武の新政をとる | 南北朝の太政大臣で、後醍醐天皇から北朝に仕えた。後に信長が建造する「二条新御所」に提供 |
「名和長年」公(建武3年(1336)戦没)遺跡 | 「足利尊氏邸」(建武3年(1336)−)跡 | 足利将軍「室町第」(永和4年(1378)造営)跡 |
大宮通一条下ル | 高倉通御池上ル | 室町通今出川上ル |
建武政権の武将・名和長年はこの地で九州から上ってきた足利尊氏と戦い敗れ戦死した。石碑は明治19年(1886)に建立された | 藤原定方の大西殿→1336足利直義/尊氏の三条坊門第で1338室町幕府の発祥の地とも言える。尊氏は延文3年(1358)この地で没した | 足利義満が「室町御所(花の御所)」ここにを建てた。文明8年(1476)応仁の乱で焼失した |
「観世稲荷社(世阿弥邸跡)」 | 「禁裏道場」(後土御門天皇(1442-1500))蹟 | 「山名宗全邸宅」跡 |
大宮通今出川上ル | 今出川通千本東入ル | 五辻通大宮東入ル |
世阿弥の父「観阿弥(1333-1384)」が足利義満からこの地を拝領し代々観世太夫が住んだ。1921観世稲荷社が(写真背景の小学校内に)建立された | 後土御門の伏見殿を改め「般舟三昧院」(天台・真言・律・禅の四宗兼学)とし「禁裏道場」と呼ばれた。秀吉によって現在の地に移された | 山名宗全(1404-1473)は在京中ここに住んだらしい。石碑には「舊蹟」とある。堀川通上立売下ル(写真無し)には「山名宗全邸址」の石碑がある |
「応仁の乱勃発の地」(応仁元年(1467)) | 「西陣」の碑 | 応仁の乱最大の激戦地「百々橋」跡 |
烏丸通上御霊前通を東へ入る | 今出川通大宮東入ル | 寺之内通小川西入ル |
応仁元年(1467)応仁の乱はこの地で勃発した | 西軍「山名宗全」はこの地に陣を構えた。この碑は昭和3年(1928)に建立された | 応仁の乱では(日本史上で初めて)平安京内で戦った(百々橋は小川に架かる橋) |
「狩野元信(1476-1559)邸」址 | 「本能寺」(天文7年(1538)頃建築か)址 | 「旧二条城」(永禄12年(1569)築城)跡 |
元誓願寺通小川東入ル | 蛸薬師通小川西入ル | 室町通下立売上ル |
絵師狩野派二代の狩野元信の邸宅はこの地に | 天正10年(1582)「本能寺の変」で焼失した | 織田信長が将軍足利義昭のために築城した |
「妙顕寺城」(天正11年(1583)築城)跡 | 「聚楽第」(天正15年(1587)造営)址 | 「上杉景勝・直江兼続屋敷」跡(推定地) |
押小路通小川西入ル | 大宮通中立売北西角(大宮大路正親町小路角) | 黒門通一条上る |
豊臣秀吉が初めて京都に築城した城はこの地に | 大きな施設であったので碑もあちこちに(例:中立売通浄福寺東入ル) | 秀吉は聚楽第の周りに大名を住まわせた。上杉・直江はこの辺りに屋敷を構えた(らしい) |
「御土居」(天正19年(1591)頃築造)跡 | 「本阿弥光悦(1558-1637)京屋敷」跡 | 「慶長天主堂」(1604-1612)跡 |
堀川通加茂川中の向かい | 油小路通五辻下ル | 元誓願寺通油小路南西角 |
御前通蘆山寺上ル、千本通旧土居町にも掲載した | 光悦はこの地で生まれ、前半生はここで過ごした | 家康に認められ、10年弱で家康に禁じられた |
徳川時代「金座」遺址 | 「本因坊発祥の地」 | 「第一世本因坊算砂(1558-1623)」旧跡 |
両替町通御池上ル | 寺町通夷川上ル | 仁王門通東大路西入ル |
慶長年間(1596〜)に堺・大坂・伏見の金屋・金吹きをこの地に集めた。寛政の改革(1800)まで | 寂光寺は天正18年(1590)秀吉の命で寺町へ。日海は寺町時代の人の故、ここを発祥の地と言う。 | 第一世本因坊「寂光寺2世日海」の墓がある。寂光寺は宝永5年(1708)現在の地に再度移転 |
京都「所司代」(慶長5年(1600)設置)跡 | 京都「西町奉行所」(寛文8年(1668)設置)跡 | 京都「東町奉行所」(寛文8年(1668)設置)跡 |
猪熊通丸太町下ル | 千本通押小路東入ル | 押小路通大宮西入ル |
京都所司代は奉行所の上位行政機関、西国三十三国大名の動静を監視した(王政復古(1867)まで) | 京都奉行所は東西奉行が月番で執行 (これは西町奉行所) | 東町奉行所は京都の代官奉行だった五味備前守屋敷(神泉苑西隣)の地に置かれた |
「千宗守(1593-1675)」遺跡 | 「伊藤仁斎(1627-1705)宅(古義堂)」跡 | 「石田梅岩(1685-1744)心学講舎」跡 |
武者小路通小川東入ル | 堀川通下立売上ル | 車屋町通御池上ル |
宗守(宗旦(利休の孫)の次男)が武者小路千家を開いた(「官休庵」) | 堀川学派の拠点、自宅に開いた私塾「古義堂」跡 | 「石門心学」の祖「石田梅岩」が自宅に「心学講舎」を開いた |
「尾形光琳宅」(元禄11年(1698)転居)蹟 | 「伊藤若冲生家」(正徳6年(1716)生誕)跡 | 「与謝蕪村宅」(安永4年(1775)転居)跡 |
烏丸通鞍馬口下ルさらに東入ル | 高倉通錦小路上ル | 仏光寺通烏丸西入ル |
光琳は派手な遊興と大名貸しの末、山里町の屋敷を売ってここへ引っ越す羽目に | 若冲は青物問屋「桝源」の長男としてここで生まれたが、本業そっちのけで画業に親しんだ | 蕪村は夜半亭二世を継ぎ、この地に移転。1779蕉風「壇林会」も結成し、俳諧活動に精を出した |
「二條家邸」跡 | (初代〜5代)「茶屋四郎次郎屋敷」跡 | (6代〜)「茶屋四郎次郎邸」(移転後)址 |
今出川通寺町西入ル | 新町通蛸薬師下ル | 下長者町通小川東入ル |
寛文3年(1663)後西院の院御所に「御所南側の地」を譲り、今出川(写真の地)へ引っ越してきた | 初代が上洛した徳川家康から拝領(天正14年(1586)頃)〜宝永5年(1708)まで、焼失で右へ | 宝永5年(1708)移転。結果、この付近は「茶屋町」と呼ばれている(背景は「近畿農政局」) |
「三井越後屋」(延宝年間(1673)開業)跡 | 「三井両替店」(貞享3年(1686)開店)旧址 | 「桂昌院(1627-1705)生家菩提寺」 |
室町通二条上ル | 新町通六角下ル | 葭屋町通下立売上ル |
宝永元年(1704)この地へ移転、現在は京本店記念庭園 | 金座ができれば両替屋もできる。三井家の祖「高利」がここに開いた | 徳川綱吉の生母、徳川将軍関連の碑は珍しい |
「日本近代医学発祥の地」 | 頼山陽「書斎山紫水明處」の碑 | 「中山邸」跡 |
六角通神泉苑西入ル | 丸太町通河原町西入ル | 京都御苑内(北東隅近く) |
山脇東洋がこの地で刑死人の解剖を行った(宝暦4年(1754)) | 碑に刻されいる通り「此ノ北 右側」に山紫水明で有名な「水西荘」(文政11年(1828)建築)が | 幕末の公家「権大納言 中山忠能」の邸宅が「明治天皇生誕(嘉永5年(1852))の地」になっている |
「池田屋騒動之址」 | 「坂本龍馬遭難」之地 | 「鳥羽伏見の戦い」の跡 |
三条通河原町東入ル | 河原町通蛸薬師下ル | 「鳥羽離宮跡」の北にある鳥羽街道 |
長州・土州など諸藩の討幕派が謀議しているところを新撰組が急襲した(元治元年(1864)) | 幕末の石碑は多いが最も有名なのがこの碑か、遭難は慶応3年(1867) | 慶応4年(1868)に起こった「鳥羽伏見の戦い」の跡(碑はあちこちにある) |
「木戸孝允」旧跡 | 「京都電信電話発祥の地」 | 「女紅場」址 |
竹屋町通土手町東入ル | 三条通東洞院西入ル | 丸太町通河原町東入ル |
明治2年(1869)近衛家から引き継いだ「木戸孝允邸」 | 京都ではこの地に始めて「西京電信局」を設置(明治5年(1872)) | 明治5年(1872)「新英学校」で開設の女子教育機関 |
「初代上京区役所」跡 | 「明治天皇行幸(明治20年(1887))所」の碑 | 「城巽幼稚園」之碑 |
小川通中立売下ル | 寺町通荒神口下ル | 押小路通堀川東入ル |
市制施行前の明治16年(1883)に開設 | 孝明帝二十年祭の時、現鴨沂高校(尋常中学校)へ行幸した(行幸所は他にも沢山ある) | 京都で最も早い明治24年(1891)に創立された、平成12年(2000)に統廃合で廃園になった |
京都市立「商業実修学校」跡 | 「京都市道路元標」 | 「花園村道路元標」 |
富小路通二条上ル | 三条通烏丸東入ル | 妙心寺道妙心寺南門近く |
「京都商業」から分離・設立(明治40年(1907)改称)、昭和23年(1948)廃校 | 大正9年(1920)施行の「旧道路法」に基づき設置された京都・距離表示の原点 | (同左)各市町村にも設置された、「花園村の原点」は今も残っている |