(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
伊藤若冲
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宗達(1569-1642)・尾形光琳(1658-1716)(・狩野派・土佐派)の後に出てきた孤高の奇才伊藤若冲(1716-1800)。 生涯のほとんどを京都で過ごし、経歴もほぼ分かっている。 ということで、関連する写真で、一生を追いかけてみた。 (念のため)これら作品の著作権保護期間は終了しています。「忠実に再現するために撮影された写真」には通常著作権が発生しない(のですが博物館では一般人は撮影できない、そこでこの写真はPublicDomainから)。 |
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「群鶏図」(1761-1765、宮内庁、「動植綵絵」第20番) | 「虎図」(1755、プライス・コレクション、正伝寺の「猛虎図」を模写) |
高倉通錦小路上ル(出生地) | 臨済宗相国寺(「若冲」名付けの親大典の寺) | 浄土宗宝蔵寺(伊藤家の菩提寺) |
正徳6年(1716)錦小路・青物問屋「桝屋源左衛門」(浄土宗)の長男として生まれる。若年時「汝鈞」、成人後の本名は「伊藤景和」。絵が好きで本業そっちのけで独学で狩野派を学び、宋元画を模写した。 | 相国寺「大典」(1719-1801、慈雲庵の住持を経て、相国寺百十三世)と交遊があり、賣茶翁(1675-1763)の「・・大盈若冲・・」(たいえいはむなしきがごとし)の記を大典から教えられ、若冲居士を号した(1752)。 | 両親の墓(若冲も没後、遺髪をこの墓に埋める)を「宝蔵寺」に建立(1751)。この関係で宝蔵寺には『竹に雄鶏図』『髑髏図』が残る。宝暦5年(1755)「桝源」の家督を弟に譲る(=画業に専念)。 |
臨済宗相国寺(寿陵の地) | 黄檗宗萬福寺(出家の地) | 黄檗宗石峰寺(死没地) |
明和2年(1765)『動植綵絵』を相国寺に寄進、翌年生前墓(写真、大典の碣銘を刻)を建てる。この関係で相国寺、同派の金閣寺、銀閣寺にも作品が多く残る。明和5年(1768)の「平安人物志」に掲載(=絵師の評価高まる) | 大典の仲間「賣茶翁」(1675-1763)・勉強した「宋元画」の影響か、安永2年(1773)「萬福寺」で黄檗宗に出家(宗旨替え)、法名「革叟」。以降、黄檗宗のお寺(写真は萬福寺塔頭「天真院」)に多くの絵を残している。 | 大火の避難先から黄檗宗海宝寺(伏見)を経て、寛政3年(1791)石峰寺の一隅に(門前という説もある)庵を造った(写真は総門)。ここでの作品は多い。寛政12年(1800)没し、ここに土葬された(生涯妻帯せず)。 |
臨済宗草堂寺(和歌山・白浜) | 金刀比羅宮(讃岐) | 臨済宗建仁寺 | 浄土宗金戒光明寺 |
『隠元豆・玉蜀黍図、鸚鵡図』(1751以前)が残っている。何故白浜に。推測(錦小路では見られない生きた海の動物の勉強のため滞在したか)。写真は『群魚図』(「動植綵絵」27番)。 | 明和元年(1764)若冲に依頼して「上段の間、二の間、三の間、広間」の障壁画を描かせたが、現在は「上段の間の『花丸図』」だけが残っている。若冲は讃岐には行かなかった模様(絵を送付)。 | (臨済宗相国寺の関係からか、臨済宗建仁寺の)塔頭禅居庵には『拾得および鶏図』、塔頭両足院(写真)には『雪梅雄鶏図』がある。 | (菩提寺との関係からか、浄土宗の)金戒光明寺には、『群鶏図押絵貼屏風』『宝珠に槌図』がある。 |