(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
尾形光琳
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「紅白梅図」屏風(念のため)この作品の著作権保護期間は終了しています。「忠実に再現するために撮影された写真」には通常著作権が発生しない(のですが博物館では一般人は撮影できない、そこでこの写真はPublicDomainから)。 |
期間番号 | 期間(開始年〜) | 主な活動 | 主な作品 | 関連する写真 | 補足 |
1 | 万治元年(1658)生〜 (14歳になるまで) | 山里町の高級呉服商「雁金屋」宗謙の次男として生まれる(幼名:市之丞、本名:惟富)。 1663三男乾山(幼名:権平、本名:惟允)生まれる。 一樹院(宗謙の継母)が“やり手”で、商売も子供の教育も熱心だった。光琳があるのは「この人のお陰」かもしれない(でも1671(光琳14歳)没)。 | 山里町の店は現在の「智恵光院通中立売下ル(智恵光院近く)西側」に当たる(写真)。 (注)「中立売通小川」という説もある。 |
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寛文12年(1672)〜 (15歳〜25歳) | 芸術的才能は生まれつきで、1673(16歳)から「山本素軒(船岡山麓)」について狩野派画を学ぶが、当初から師を凌いでいたらしい。 父宗謙の影響で「能」も学び、1676(19歳)で渋谷七郎右衛門から「諸能仕様覚語之習」を伝授された。 1676母没、同年妹二人も没。 | 「桜花山水図」画稿(20歳代の作、狩野派風三幅、重文、京都国立博物館) | 能を見るために「11世左近重清」の住む観世屋敷(大宮通今出川上ル(西陣中央小学校)、現在の「観世稲荷社」(写真))あたりによく足を運んだらしい。山里町からはほんの数百m先。 | ||
天和3年(1683)〜 (26歳〜34歳) | 大顧客「東福門院」没(1678)以降、家業は衰退の一途。1683(26歳)兄藤三郎の勘当が解け、兄が雁金屋を引き継ぐことに。 これ以降、光琳・乾山は遊興三昧しながら芸術の道を邁進。 1687(30歳)父没、山里町・西京の屋敷を相続。 | 「歌仙画」画稿(宗達の「歌仙図扇面」を模写、墨画、一枚、重文、京都国立博物館) | 1680(23歳)「父が母妻娘のために深草宝塔寺(日蓮宗、写真)に寄進した」という記録がある。 どういう経緯かわからない、宝塔寺にもそれらしき碑は残っていない。 |
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元禄5年(1692)〜 (35歳〜40歳) | 1692(35歳)光琳を名乗り、画家として活動を始める。 1693(36歳)から「二条綱平(後に関白)邸」へ頻繁に伺候。能をはじめ芸術的な話し相手になっていた。「献上用の扇絵」や「進物用絵付菓子箱」などを寄贈していた。 1693(36歳)片手間で始めた「大名貸し」も回収不能となり、借金も増えた。 1694(37歳)で多代(30歳)を娶る。 | 「蹴鞠布袋図」(光琳筆とある、墨画、一幅、40歳前後) | 二条綱平が住んでいた二条邸には碑が残る(写真)。現在の「今出川通寺町西入ル」に当たる。山里町から2km弱。 | ||
2 | 元禄11年(1698)〜 (41歳〜43歳) | 1698(41歳)派手な遊興と大名貸しの末、山里町の屋敷を売って「上御霊藪内町」へ引っ越す羽目に。 1699乾山、鳴滝に窯を開く。 1699交際のあった中村内蔵助、銀座の年寄に。 1700二条綱平、光琳の扇を万里小路大納言に贈る。 | 「夢中富士山図」(1699作、墨図) 「草花図」屏風(伊亮印、六曲一双) | 上御霊藪内町の屋敷跡には碑が残る(写真)。現在の「烏丸通鞍馬口下ルさらに東入ル」に当たる。 中村内蔵助の邸宅は現在の「平安女学院」(烏丸通下立売)あたりで、上御霊藪内町からも近い。 |
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元禄14年(1701)〜 (44歳〜46歳) | 1701(44歳)光琳の絵を気に入っていた二条綱平の推挙で法橋に叙せられる。 法橋の位を得て自信をもって(模倣・習作から)光琳独自の画を描くようになった。画風昂揚期と呼ばれる。 | 「秋好中宮図」(1701作、法橋光琳の落款、MOA美術館) 「燕子花図」屏風(国宝、六曲一双、法橋光琳の落款、西本願寺→根津美術館) 「八橋蒔絵硯箱」(国宝、東京国立博物館) |
3 | 元禄17年(1704)〜 (47歳〜51歳) | (江戸下りについてはいろいろな説があるが) 1703(46歳)奢侈禁止令の咎(華美な絵を描く)により「京市中住居お構い」になり、1704(47歳)江戸下り、蛎殻町に住んだ。 1706大留守居「酒井雅楽頭忠挙」の庇護を受ける(十人扶持、後に二十人扶持)。 | 「中村内蔵助像」(1704作、江戸下り直前、大和文華館) 「鳥獣写生図」(習作、墨画彩色) 「四季草花図巻」(1705作、四面額装、津軽家→大和文華館) | 琳派 宗達(1569-1642)・尾形光琳(1658-1716)・酒井抱一(1761-1829)に連なる装飾的・意匠的な絵画の流派。 後世(≒現代)になって名付けられた流派。 この3人は直接会っていない(年代が異なる)私淑関係であるところが面白い。 でも宗達・光琳はいろいろな関係があり、光琳・抱一は「酒井家」を通じて関係している。 |
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4 | 宝永6年(1709)〜 (52歳〜) | 1709(52歳)京に戻る。 江戸在住からこの頃までが画風転換期と考えられる。 1711(54歳)新町通二条下ルに住居を建てる。 1712(55歳)乾山も二条丁子屋町(現在の二条通御幸町)に戻ってくる。 ようやく落ち着いて画風大成期を迎えた。 | 「風神雷神図」(宗達に対抗、重文) 「松に鶴図」六角皿(1710作、乾山作の皿に絵を描く、重文) 「孔雀図」屏風(重文、二曲一双) 「四季草花図」屏風(六曲一双) | 新町通二条下ルの住居は座敷図(光琳自らが設計、絵所は2階)が残っており、MOA美術館に「復元住居」が作られている(見学可能)。 | |
正徳6年(1716)6月2日 (59歳で没) | 1713(56歳)遺言状を書く。 「妙顯寺興善院」に葬られる。 | 「八橋図」屏風(再度燕子花、六曲一双、池田家→メトロポリタン美術館) 「紅白梅図」屏風(国宝、二曲一双、MOA美術館) 「維摩図」(最晩年の作、重文、墨画) | 妙顯寺興善院の跡地には現在妙顯寺泉妙院(寺之内通新町西入ル、写真)があり、墓は(乾山も一緒に)泉妙院の中にある(命日の6/2のみ表門が開く)。 |