(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

山名宗全と細川勝元           (INDEX:索引へ)


応仁の乱の東西両軍の総大将を務めた2人の生涯を簡単に追ってみた。
応仁の乱についても「私的に」まとめてみた。

    山名宗全    細川勝元    応仁の乱へ【私説】    応仁の乱終盤【私説】
「山名宗全邸」宅のあったあたり宗全が建立した「真乗院」に墓がある
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現在の五辻通大宮東入ルあたりに石碑が建っている門前はよく通るのですが「塔頭は非公開」(のはずです、墓は見られるのか不明)
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「細川邸」のあったあたり勝元が建立した「龍安寺」に墓がある
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現在の小川通寺之内下ルあたり、現在は「織物屋」「茶道具屋」さんが並んでいる「石段を登った先の庫裡」から入って参拝する。墓のある墓地には入れない(と思っていますが)
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応仁の乱勃発の地となった「上御霊社」応仁の乱で戦場になったのは(下の図の範囲)
clickすれば大きな画像clickすれば大きな画像東陣=花の御所

上:上御霊社
相:相国寺
百:百々橋
戻:一条戻橋

細川邸は前線に出過ぎている

鴨川の東側(百万遍など)、東山東岩倉山、二条以南でも戦闘はあった
神社境内に「応仁の乱発端 御霊合戦舊跡」の碑が建っている
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足利義政の墓「山名家」と「細川家」の家系
clickすれば大きな画像clickすれば大きな画像「二重線」は「猶子関係」

政元は(趣味の関係で)
実子を作らなかった
(これも家が廃れる要因)
相国寺にあるのは理解できるが、何故若冲の隣なのか
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