(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
応仁の乱
(INDEX:索引へ)
現在の京都からは平安京の姿を類推することは難しい。これを困難にさせたのが「応仁の乱」。
「応仁の乱」で平安京の面影は一挙に失われた
。
その後も大火が続き、昔の京都は見え難くなっている。
平安京成立以来、この地にもたらした
最大の合戦
が「応仁の乱」である。
歴史では「応仁
(おうにん)
・文明
(ぶんめい)
の乱」と言われる。
応仁元年(1467)に勃発し、約10年間京都の市街で戦闘が行われた。
京都を争う戦闘は
、源平の争い、戦国期の争いと歴史上数多くあったが、これらは天皇を戴くとか、
象徴としての日本の中央を制覇するなどの目的で行われたので、京都市街での戦闘はごく短期間であった
。
かつ、京都の町を破壊しないという意識があり、形勢が悪くなった陣営は京都で戦うことなく潔く下洛
(都落ち)
した。
したがってこれらの戦闘で京都の町が大きく破壊されることはなかった。
これに対して、「応仁の乱」を戦った
細川勝元
、
山名宗全
らは京都市街の北方で公然と戦闘を展開した
。このおかげで北を中心に京都市街の1/3が焼け野原となった。
このとき、相国寺、上御霊社、天竜寺、仁和寺なども焼失した。
平安京成立以来、
このときが最も京都の規模が小さくなった時期
、と言われている。
「応仁の乱」で残ったのは「西陣」の名前だけ、ともいえる。
西陣の碑
応仁の乱最大の激戦地
百々橋
跡
その後、豊臣秀吉が天正19年(1591)に「
御土居
」を築いたことで、条坊制の街路や町割が復活し、都市としての再生が始まった。
しかしその後も大火が続き、焼亡と再整備を繰り返すことになる。古い建造物は再建で残ることになる。
宝永5年(1708)「宝永の大火」。
今出川から四条までが、被災。
天明8年(1788)「天明の大火」。
市街の90%が焼亡。京都史上、最大規模の大火。
元治元年(1864)
蛤御門の変
による「どんどん焼け」。
現・御所から南七条まで、鴨川と堀川の間はほとんどが焼亡。
薩摩藩・長州藩も罪なことをした
ものだ。
【通好み】
京都のお年寄りから
「前の戦争のときは大変どしたなあ」
と言われたら、この戦争とは「応仁の乱」だと理解して「
細川はんも罪なことしましたなあ
」と相槌を打たないと話が続かなくなります。
京都の人は「太平洋戦争」より「京都の生活・文化に影響を与えたのは応仁の乱」という意識を持っている証左です。
こまめに歩けば、町のあちこちで「応仁の乱」の痕跡を見ることができます。
「応仁の乱」当時
(約550年以上も昔の)
の「刀槍矢の当たった穴」が今でも見られる
「
千本釈迦堂
(大報恩寺)
」の堂内の柱
「
妙心寺玉鳳院
」の開山堂唐門の柱