(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

平安京内での合戦           (INDEX:索引へ)


「どんな戦(いくさ)で京都の町が被害を受けたか(具体的には、どんな建物が破壊されたか)」を歴史を追って調べようとしている。

(1)戦(いくさ)(原則)合戦を想定したい。
(2)戦場=平安時代の平安京(平安時代以降も同じ範囲)を対象とする。

(索引)   武士出現以前   合戦以前の武力行動   平安時代末期〜   南北朝時代〜   江戸時代〜
応天門(平安神宮)清涼殿(京都御所)
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写真は、現在の平安神宮内に5/8縮尺で復元された(明治28年(1895))もの写真は、現在の京都御所内に復元された(明治18年(1885))もの
鴨川の河原東市粟田口
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日吉神輿と合戦になったのは「三条から四条あたり」の河原か(詳細は不明)首を晒した“繁華街”の東市は、現在の「龍谷大学 東門」(写真)の少し奥にあった「粟田口」は京から東国への出入口であり、「京のはずれ」でもある
白河北殿待賢門宜陽殿
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保元の乱で類焼した。現在は「京都大学熊野寮」(中核派の立看板の残骸と共にある)禁門(大内裏を囲む14門)の一つ(東面)(信じ難いが)ここ禁門の前で騎馬が合戦紫宸殿のすぐ「南東」にある「宜陽殿」は、「源頼茂の謀反容疑」の際、類焼した
三条坊門殿(足利直義の邸宅)二条御所(将軍義輝の邸宅)本能寺
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現「御所八幡宮」(御池通高倉東入ル)の位置にあったといわれる(三条坊門=御池通)現「平安女学院高等学校」(室町通下立売下ル)の位置にあった(室町将軍の邸宅は「御所」)現在は石碑(蛸薬師通小川西入ル)のみを残す
蛤御門西陣空襲
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禁門の変のときそのまま、門柱をよく見ると「弾痕」が確認できる(当時はもう少し東で南面)「被爆地」の看板があるのは浄福寺通出水下ル、この地が市内での太平洋戦争最大の被爆地