東大谷山
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★★★
★★★
★
★★
2.0
山頂の特定(
地図
)
種本に「山上北側に熱心な日蓮宗徒であった
茶屋四郎次郎
の墓がある」との記述があるが、茶屋四郎次郎の墓は標高140m程度の斜面にあり、とても山頂とは言えない。
東本願寺の墓地(東大谷墓地)を東へ進んでいくと、南の高台寺山と並んで立派にこんもりした山が見える。
東大谷墓地から見て「その背後に2つ並んだ山の左手(北側)の山」を東大谷山と見做すのが適当
と考える。
しかし
山頂には特に目立つ印はない。ちょっと開けた「こぶ」
である。「登山ルート」から見ると「知恩院−将軍塚ルート上」の将軍塚へ曲がるあたりにある。このルートを歩いたのでは
おそらく見逃してしまう
。カシミール・数値地図から標高は184mとした。
山頂からは樹木の間に東大谷墓地がほんの少し見え隠れする。
登頂記録
H15-5-4初登頂(探索)。
このときは『東本願寺』東大谷墓地のてっぺん(26区)から高みを目指して道なき稜線を北側へトラバースする形で登っていった。
「知恩院−将軍塚ルート」を将軍塚(華頂山)から下りて行くのが最も手軽だが
(
東山三十六峰の近接関係
を参照)、
上述のようにおそらく見逃すはめになるだろう
。
山頂から東大谷墓地の方へ下りていくとき、北へ北へズレていくと、茶屋四郎次郎の墓に出られる。さらに北へ下りていくと長楽寺設置のフェンスにぶつかる(その先へは下りられない)。
難渋するが「登山ルート」に書いたルートのみが山頂に辿り着けるルートのようである。
東大谷山
一言で言えば
東本願寺の墓地(東大谷墓地)の背後、高台寺山の北(左)に並んでいる山
(
東山三十六峰の近接関係
を参照)。
東大谷墓地を登りつめて行けば左手に見える
大きな山が東大谷山である(「山頂の特定」参照)。
この地には日蓮宗「東漸寺」があったため「東漸寺山」と呼ばれていたが、この地が親鸞の聖地であることから「大谷祖廟(東大谷)」ができた。結果この山も「東漸寺山」から「東大谷山」と呼ばれるようになった。
東漸寺自体はこのとき円山に移転したが、明治になって廃寺になってしまった。
長楽寺山と同じく「粟田口長楽寺山町」にある。
東本願寺
本願寺創建については
西本願寺
を参照。本願寺が東西2つに別れたのは、慶長7年(1602)。
徳川家康
が本願寺の強大な勢力を分散させるために、現在の地を教如上人(石山合戦で有名な顕如上人の子)に与え、東本願寺を興させた。
以来、
真宗大谷派
本山(現在、末寺約8,700)となった。山号はない。関連大学は
大谷大学
。
国宝「教行信証(親鸞筆、6冊)」がある。
阿弥陀堂、御影堂など大きな建物が並ぶ。東本願寺法主の別邸であった「枳殻邸」が現在「渉成園」として「飛び地」に残っている。
「
東本願寺
」という名称で、北の部分が描かれている
(次の頁に「御影堂」「阿弥陀堂」が描かれている)
この頁には「菊之門」
(今はなんと呼ばれているのか不明、それとも無くなったか)
が描かれている
阿弥陀堂門(重文)
阿弥陀堂(重文)
東本願寺
(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベースから)
近くの仏閣神社
大谷祖廟
(通称:東大谷)
親鸞聖人埋葬の経緯については
大谷本廟
を参照。
いったん納められた遺骨は寛文10年(1670)現在の地(
円山町
)に移された。
「大谷御坊」と呼ばれていたが、昭和56年(1981)「大谷祖廟」に改称された。
円山町
にある大谷祖廟への入口
大谷祖廟
。背後に見えるのが東大谷山
広大な「東大谷墓地」
近くのグルメ
菊乃井
祇園円山真葛ヶ原の中をどんどん進む。大谷祖廟(東大谷)の南にある割烹旅館。
最近料理で売り出し過ぎ。あちこちに食事処・売り場もできてきた。
本来は、泊まって食べるところ。どうせ食べるなら泊まりたい。でもここも負けず劣らず料金は高い。
菊乃井
雍州府志での記述
東漸寺山
大谷の南に在る。
親鸞上人の塔の在ったところが(注:江戸時代の)大谷。親鸞上人の塔は今は鳥戸山(注:今の大谷本廟)に移っている。
東山国有林風致計画での記述
東漸寺山
大谷の南にある。
東大谷山頂
山頂から西側(市街)を見る
東大谷墓地を登る(背後が東大谷山頂)