(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

石碑(平安京)           (INDEX:索引へ)


京の街角には多くの石碑が建っています。その内の多くは平安京を偲ばせるものです。
かつての平安京に邸宅があったと思われる地点を探索し、現在石碑が建っていればその写真を撮りまとめてみました。
この条件にあてはまらない石碑で、“惜しいもの”は選外として記述し、“平安京邸宅と関係のないもの”は記述もしませんでした。
その意味ではこのページは「平安京邸宅に関する石碑(大内裏外にある役所も含めた)」と題するのが適切かもしれません。


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往時の条坊代表邸宅名現在の住所
左京北辺二坊一町一条院(一条大宮第、大宮院)大宮通中立売上ル
藤原師輔「一条殿」に始まる。
藤原詮子一条天皇の里内裏

その後、三条・後一条天皇・後朱雀・後冷泉天皇の里内裏。
藤原永範のときは「一条大宮第」。
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「源氏物語ゆかりの地」説明板 説明板「一条院跡」 南北朝「名和長年公遺蹟」(写真)のある「名和児童公園」の前に建てられた
往時の条坊代表邸宅名現在の住所
左京北辺四坊七町染殿(そめどの、染殿第)京都御苑内東北部
藤原良房の染殿があった所で、良房の姪高子はここで陽成天皇を産んだ。

その後基経→忠平→師輔→安子→為平親王御所と伝領。
南半分は清和院(清和天皇(良房の娘・明子の子)の後院)として提供された。
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木碑と駒札・・・ 木碑「染殿井」(染殿にあった井戸)
駒札「染殿第跡」
背景は「(建設中だった)京都迎賓館」
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左京一条二坊七町検非違使庁上京区葭屋町通出水上ル
「邸宅」ではないが、ここに検非違使庁があった。

検非違使は弘仁6年(815)年頃に創設された令外の官である。そのせいか、大内裏の外に置かれた。
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石碑・・・ 石碑「(平安京)検非違使庁址」 平成16年 古代学協会 建立
一般住居に囲まれている
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左京一条三坊九町土御門烏丸殿上京区烏丸通下長者町上ル
元は源師時の土御門邸、永久5年(1117)鳥羽天皇の里内裏「土御門内裏」が造営された。後、崇徳・近衛の里内裏。

「土御門」の名の邸宅は他にも多数あるため「土御門烏丸殿」と区別して呼ばれることが多い。
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石碑と説明板・・・ 石碑「土御門内裏跡」、2つ目の石碑
説明板「土御門烏丸邸」
平成8年 古代学協会 建立
背景は「京都ガーデンパレス」
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左京一条三坊十二町菅原院上京区烏丸通椹木町上ル
菅原是善(道真の父)→是善の娘・類子(ともこ)に伝領。ここで道真は生まれた

長和3年(1014)には権中納藤原行成が、康治元年(1142)には藤原忠通が借用した。
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石碑・・・ 石碑「菅家邸址」 昭和13年 京都市教育会 建立
背景は「菅原院天満宮神社
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左京一条三坊十五町枇杷殿京都御苑内西中部
元は藤原基経から仲平に伝えられた邸宅。後に道長→娘・妍子(三条天皇皇后)へ。

さらに一条・三条天皇の里内裏にあてられた。
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駒札・・・ 駒札「枇杷殿跡」 背景は「京都御苑西中部」
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左京一条四坊三町花山院京都御苑内南西部
元は藤原良房の「東一条第」。その後、忠平、師輔に引き継がれた。花山天皇藤原兼家に騙されて寛和2年(986)出家後ここを後院とした。長和3年(1014)焼失。

康平6年(1063)藤原師実が再建、「花山院家」が代々伝領、明治維新に至る。
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石碑と周辺・・・ 石碑「花山院邸跡」 現在は「宗像神社」境内の内にある
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左京一条四坊十五〜十六町土御門殿京都御苑内東中部
藤原道長の邸宅。「上東門第」「京極第」とも。『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば』はここで詠んだとか。

ここで道長の娘・彰子上東門院)は後一条・後朱雀、娘・嬉子は後冷泉を産んだ。
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駒札・・・このページのトップへ 駒札は「土御門第跡」とある 背景は「京都御苑東中部」
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左京二条二坊三〜六町冷然院(冷泉院、れいぜいいん)中京区竹屋町通堀川西入ル
桓武天皇の離宮「近東院」が前身。嵯峨天皇が「冷然院」と改称し、後院(譲位後の御所)として利用された。

火災が続き「冷泉院」とさらに改称。村上天皇が最初の里内裏とした。
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石碑と駒札・・・ 石碑も駒札も「冷然院跡」 昭和45年 京都市 建立
背景は「二条城」
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左京二条二坊九・十・十五・十六町高陽院(かやいん)中京区丸太町通小川西入ル
元は桓武天皇の皇子・賀陽親王(かやしんのう)の邸宅。

焼失地に藤原頼通が近くの区画も合わせて広大豪華な邸宅を造った(敷地内で競馬ができる)。これが「高陽院」。後、後冷泉〜崇徳まで続いての里内裏に。
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説明板・・・ 説明板「高陽院跡」 (財)京都市埋蔵文化財研究所 建立
背景は「石田大成社」(平成23年)
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左京二条二坊十三町陽成院中京区夷川通小川東入ル
藤原高子→陽成上皇の御所陽成天皇はここを仙洞とし65年間の前半をここ陽成院で過ごし、後半は冷泉院を主たる御所とした。

源氏物語の「二条院」はこの地にあったと比定されています。
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「源氏物語ゆかりの地」説明板 説明板「二条院候補地(陽成院跡)」 京都市文化市民局 設置
背景は「夷川児童公園」
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左京二条四坊十一町源高房「大炊御門第」中京区富小路通夷川上ル
平安後期、但馬守源高房の「大炊御門第」があった。
延久5年(1073)病を得て譲位後、後三条天皇はここに遷り、この地で崩御した。

その後、中納言源能俊の手に移り、白河法皇はここを仮の「院御所」とした。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑「大炊御門万里小路殿址」 昭和15年 富有同窓会 建立
背景は「富有自治会館」
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左京二条四坊十三町藤原定家「京極邸」中京区寺町通二条上ル
漸く地位を得て(内昇殿聴許)建仁2年(1202)定家はここに邸宅を構えた。故に京極中納言と呼ばれるようになった。

その後、為家の子 二条為氏に引き継がれた。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑「藤原定家京極邸址」 大正5年 京都市教育会 建立
背景は「京都古梅園」
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左京三条一坊一・二・七・八町大学寮中京区押小路通美福南西角
大学寮があった(官僚育成機関)。 clickすれば大きな画像 clickすれば大きな画像
石碑・・・ 石碑「大学寮址」 大正4年 京都市教育会 建立
背景は「二条城前の押小路通」
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左京三条一坊四町奨学院中京区千本通三条北東角
奨学院があった(貴族の教育機関)。 clickすれば大きな画像 clickすれば大きな画像
石碑・・・ 石碑「奨学院址」 大正6年 京都市教育会 建立
背景は「パチンコ店」(左奥柱の脇)
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左京三条一坊五町勧学院中京区坊城通三条上ル
勧学院があった(藤原氏出身の大学寮学生のための寄宿舎)。 clickすれば大きな画像 clickすれば大きな画像
石碑・・・ 石碑「勧学院址」 大正6年 京都市教育会 建立
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左京三条一坊六町弘文院中京区御池通千本東入ル
弘文院があった(和気広世が創った大学寮学生のための寄宿舎)。 clickすれば大きな画像 clickすれば大きな画像
石碑・・・ 石碑「弘文院址」 大正6年 京都市教育会 建立
背景は「京都府浴場組合の駐車場」
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左京三条二坊九〜十町堀河院中京区堀川通二条下ル
元は藤原基経の邸宅「堀河殿」。兼通が改修し、円融天皇の時初めて里内裏になった(堀河院)。

後、白河・堀河・鳥羽・崇徳天皇の里内裏に。中でも堀河天皇はここで受禅・崩御したので石碑に名を残した。
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石碑・・・ 石碑「堀河天皇里内裏址」 平成元年 藤田観光株式会社 建立
背景は「京都国際ホテル」
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左京三条二坊十一町[虫支]松殿(はいまつどの)中京区姉小路通東堀川東入上ル
橘逸勢の「[虫支]松殿」があった。

その後、源師房→藤原師実と伝領された。
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石碑・・・ 石碑「橘逸勢邸址」 大正5年 京都市教育会 建立
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左京三条二坊十五〜十六町閑院中京区押小路通小川西北角
藤原冬嗣が創建、藤原氏の(同時代の超一級)邸宅として用いられ、公季のとき「閑院」と称した。

堀河天皇以降(鎌倉時代)長きにわたって里内裏として使われた。
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石碑・・・ 石碑「閑院内裏址」 大正4年 京都市教育会 建立
背景は「西福寺」(遠くは二条城)
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左京三条三坊一〜二町東三条院(東三条殿)中京区押小路通釜座西北角
醍醐天皇の皇子重明親王の邸を藤原良房が(伝領)改修し「東三条殿」とした。
兼家の娘・超子は三条天皇を、娘・詮子(東三条院)は一条天皇をここで産んだ。

源氏物語の「右大臣邸」はこの地にあったと比定されています。
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石碑と駒札・・・ 石碑「東三条殿址」
駒札「東三条院址」
大正4年 京都市教育会 建立
背景は「釜座通」
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左京三条三坊三町高松殿中京区姉小路通釜座東入ル
源高明の邸宅に始まり、娘・明子(藤原道長の妻)が伝領し「高松殿」とした。

焼失後、鳥羽上皇が新造営し、後白河天皇はここで受禅し(鎌倉時代は)里内裏に。保元の乱では後白河方の拠点になった。
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石碑と駒札・・・ 石碑も駒札も「高松殿址」 大正4年 京都市教育会 建立
背景は「高松神明社」
往時の条坊代表邸宅名現在の住所
左京三条三坊十二町三条西殿中京区姉小路通烏丸西入ル
藤原頼通の妻祇子→藤原師実と伝領。

白河法皇・鳥羽上皇・待賢門院璋子の御所として利用。後に後白河法皇と建春門院滋子も入った。ここも「院政時代」に活躍した。
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説明板・・・ 説明板「三条西殿・三条大路跡」 昭和63年 (財)古代学協会 建立
背景は「烏丸三条の交差点」
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左京三条三坊十三町三条東殿中京区姉小路通烏丸東入ル
藤原済家→家通と伝領。白河天皇はここを受け「里内裏」とし譲位後「院御所」に改修。後、鳥羽(待賢門院)・後白河も院御所として利用(院政の中心)。

平治の乱の発端となった場所でもある。
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石碑と駒札・・・ 石碑も駒札も「三条東殿遺址」 昭和41年 京都市管理部 建立
背景は「新風館」
往時の条坊代表邸宅名現在の住所
左京三条四坊三町在原業平邸中京区間之町通御池南東角
在原業平の邸宅があった。 clickすれば大きな画像 clickすれば大きな画像
石碑・・・ 石碑「在原業平邸址」 昭和47年 平安博物館 建立
背景は「吉忠株式会社」
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左京三条四坊四町高倉宮中京区東洞院通姉小路下ル
後白河天皇の皇子以仁王の(高倉小路に面した)御所があった。

平氏追討の令旨を出したところで知られる。以仁王は式子内親王の弟でもある。

未申の一角は鬼殿であった。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑「高倉宮趾」 大正3年 初音学区有志者 建立
背景は「京都市教育相談総合センター」
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右京四条一坊一〜八町朱雀院中京区四条通七本松東入ル
宇多上皇や朱雀上皇の後院「朱雀院」があった。
朱雀院は天暦4年(950)に焼失、応和3年(963)頃村上天皇によって再建されたが、次第に荒廃。敷地自体は鎌倉時代初期まで維持されたらしい。
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石碑・・・ 石碑「朱雀院跡」 昭和45年 京都市 建立
背景は「日本写真印刷株式会社」
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左京四条二坊七町中山内府邸中京区岩上通蛸薬師上ル
中山忠親は平安末期から鎌倉初期の公卿で中山内大臣(内府)と称された。

その日記『山槐記』は、源平内乱期の重要資料になっている。
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石碑・・・ 石碑「中山内府威蹟地」 背景は「中山神社」
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右京四条二坊十一〜十四町淳和院右京区四条通西大路東入ル
淳和天皇の離宮である淳和院(西院)があった(当初は南池院と呼称)。

天皇は天長10年(833)譲位し、この南池院を淳和院と改称し仙洞と定めた。→太皇太后正子内親王(淳和天皇皇后)の御所→貞観16年(874)焼失→元慶3年(879)尼寺となった。
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石碑・・・ 石碑「淳和院跡」 昭和45年 京都市 建立
背景は「高山寺」
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左京四条三坊九町三条南殿中京区三条通烏丸西入ル
堀河・鳥羽天皇の乳母藤原光子の邸→藤原実能→鳥羽法皇に伝領され「院御所」になった。

源氏物語の「若紫家」はこの地にあったと比定されています。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑「三条烏丸御所跡」 平成元年 株式会社千總 建立
背景は「株式会社千總」
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左京五条三坊二町紅梅殿下京区仏光寺通西洞院東入ル北側
菅原道真の邸宅があった。

菅原院道真が生まれたところ。
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石碑・・・ 石碑「菅家邸址」 昭和13年 京都市教育会 建立
路地の奥が「紅梅殿」
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左京五条三坊三町白梅殿下京区仏光寺通新町西入ル菅大臣町
菅原道真の父 菅原是善の邸宅があった。

道真の紅梅殿とは(西洞院大路に面して)「お隣」であった。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑「菅家邸址」 昭和13年 京都市教育会 建立
背景は「菅大臣神社」
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左京六条二坊九町三善清行邸下京区醒ケ井通松原下ル
平安時代前期の学者・中級官吏三善清行の邸宅があった。「化け物が出る」と言われた屋敷を買い取って住んだ(という話が伝えられている)。

菅原道真とは(ある意味)ライバルであった。
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石碑・・・ 石碑「三善清行邸跡」 昭和45年 京都市 建立
背景は「醒泉小学校」
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左京六条四坊十一〜十四町河原院下京区木屋町通五条下ル
源融の別荘河原院があった。

源氏物語の光源氏の邸宅「六条院」に比定されている。繁華街河原町の由来地でもある。
恵慶法師も歌に詠んでいる。
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石碑と駒札・・・このページのトップへ 石碑も駒札も「源融河原院址」 大正4年 京都市教育会 建立
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左京七条一坊三〜四町東鴻臚館(こうろかん)下京区千本通花屋町東入下ル
(西新屋敷揚屋町)
東鴻臚館があった(外国使節の迎賓館)。

右京には西鴻臚館が(左京と同じ位置に)あった
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石碑と説明碑・・・ 石碑も説明碑も「東鴻臚館址」 大正4年 京都市教育会 建立
背景は「角屋」(若干北に建っている)
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左京七条三坊一町六条若宮下京区若宮通六条下ル
清和源氏・源頼義の邸宅で、源義家がここで生まれたことから「六条若宮」と呼ばれる。

邸内に八幡宮が勧請されたことで、「若宮八幡宮」になった。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑左側面「八幡太郎義家誕生地」
石碑正面は「若宮八幡宮」
大正11年 前田氏 建立
背景は「若宮八幡宮」
往時の条坊代表邸宅名現在の住所
左京八条一坊十一〜十四町西八条第下京区西大路通八条北東角
平清盛は「六波羅」とは別に交通の要衝に邸宅「西八条第」を造った。周辺には平家一族も住んだ。

平家都落ち(1183)の際、自らの放火で焼失した。
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石碑・・・ 石碑「平清盛公西八条殿跡」 背景「若一神社」(七条御所ノ内本町)
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左京八条三坊十三町東八条殿JR京都駅八条口中央案内所
鳥羽天皇と美福門院との間の皇女・ワ子(あきこ)内親王はここに邸宅「八条第」が贈られた。
後、二条天皇の准母となり八条院の院号が与えられた。

八条院領を所有したことで歴史に名を残した。
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説明板・・・このページのトップへ 説明板「八條院および八條第跡」 平成2年 (財)古代学協会 建立
背景は「中央案内所」の西壁
往時の条坊代表邸宅名現在の住所
右京九条一坊九〜十六町西寺南区七本松通東寺道下ル(唐橋西寺町)
東寺と並ぶ「官寺」。

三度目の火災(天福元年(1233))で廃絶した。
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石碑・・・ 石碑「西寺阯」 大正15年 建立(大正10年内務大臣による国指定史跡)
周囲は「西寺児童公園」
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左京九条二坊十一、十四町綜芸種智院南区西洞院通九条東寺前下ル
(西九条春日町)
空海が、身分上大学や国学に入れない者のために、内外典(仏書・儒書)を講じ、種智(仏道・真理を究めようとする心)への到達を狙った「私学校」。

空海亡き後、廃絶した。
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石碑・・・このページのトップへ 石碑と駒札「綜芸種智院蹟」 昭和3年 建立(京都史蹟会)
石碑は(本来の位置よりやや北の)「南区西九条池ノ内町(西福寺前)」にある
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選外とした石碑・・・いくつか例を示します・・・このページのトップへ