97.権中納言定家

藤原定家 上の句順 下の句順 (INDEX)


こぬひとを  まつほのうらの  ゆふなきに  やくやもしほの  みもこかれつつ
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくやもしほの 身もこがれつゝ
来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつゝ

■親族歌人  藤原実方の従兄
藤原俊成の子
藤原公経の義兄弟

■歌について
定家自身が新勅撰集に自撰している自信作。
■出典
新勅撰集恋三
■作者略歴
1162-1241。父俊成の後を受けて、御子左家を率いた。京極中納言と呼ばれた。始めの名は光季、季光、そして定家。源通具、藤原有家、家隆、雅経と新古今集を撰す。母は藤原親忠(若狭守)の娘、美福門院伯耆。子は為家、孫は為氏(二条家)、為教、為相(冷泉家)。為氏の子為世も新後撰集を撰す。為相の母は「十六夜日記」の著者。
【補】
藤原定家が「どこに住んだか」は藤原定家の住居にまとめた。
御子左家の家系はこちらにまとめた。
一時、美濃「関の藤川」に仮寓したことが十六夜日記に書かれている。
藤原定家は建久7年(1196)式子内親王の家司を務め、その後定家葛の塚を残している。
藤原定家の墓もいくつかあって、わかりにくい。相国寺(他にも石像寺厭離庵)にある。