(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
鴻臚館
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読みの難しい『鴻臚館(こうろかん)』について調べた。
【広辞苑第六版】によれば
「鴻臚館」とは
古代、筑紫(今の福岡市中央区)・難波・平安京に設けて外国使節を接待した宿舎。
平安京以外にもあった訳で、現在の福岡・舞鶴公園にも「鴻臚館跡展示館」がある。
福岡・舞鶴公園の「
鴻臚館跡展示館
」
柱の跡などが展示されている。復元図も見られる。筑紫の鴻臚館には
(日本からの)
遣唐使なども出発のために宿泊した
平安時代前期の外国との交流
遣唐使
奈良時代から続いており、平安時代になって
延暦23年(804)大使=藤原葛野麻呂
最澄
は請益僧
(仏典を請来する目的で、遣唐使と共に帰国する)
、
空海
は留学生
(20年間次の遣唐使が来るまで唐で勉強する)
で唐へ向かった。
延暦24年(805)判官=高階遠成
唐の順宗即位の賀を述べるための使節だった。この
遣唐使があったお陰
で「
空海
・
橘逸勢
」が帰国できた。結果、
真言宗が成立
した。
承和5年(838) 判官=藤原常嗣
小野篁が
遣唐使拒否事件
を起こしたのはこの遣唐使の時。
円仁
が請益僧で入唐。結果これが
最後の遣唐使
になった。
寛平6年(894) 大使=菅原道真
菅原道真
(参議)の反対意見で「取り止め」になった。
中国(唐)からの公式な使節の来日は無かった(日本から使いを出すだけ)。
商人、海賊レベルでは結構多くの人(朝鮮も含めて)が日本に立ち寄っていた模様。平安時代前期(唐滅亡の延喜7年(907))までは平安京まで来た記録はみつからない。
公式な使節は、奈良時代から続いている
渤海
のみだった。平安時代
最初に平安京にやって来たのは「延暦15年(796)の渤海使」。
逆に日本から出掛けたのは「遣渤海使」。「弘仁2年(811)渤海使」帰国の折の「送使=林東人」が
(日本からの)
最後
(13回目)
の「
遣渤海使
」になった。
延暦15年(796)〜延喜20年(920)まで頻繁にやってきて「鴻臚館」に泊まった(数え方にもよるが平安時代は
通算22回
)。
延喜20年(920)
が渤海使の終わりになった。
延長4年(926)
渤海は「契丹」に滅ぼされて、無くなった。
平安京の鴻臚館
延暦15年(796)には
渤海使が入京
しているから、平安
遷都
(延暦13年(794))
間もなく鴻臚館は造られた
。
「平安京造営」の企図に沿って「左京と右京」に「東鴻臚館と西鴻臚館」が造られた(下の図)。
位置と大きさ
(三町・四町に拡がる)
は推定されているが、建物の様式は分かっていない。「鴟尾」は付いていたと推定されている。
しかし実際に使われたのは「
渤海使
」が来日する時に限られ
(他の国からの来日は無かった)
、維持に費用が掛かることから
承和6年(839)
「東鴻臚館」を廃止した。
現代で考えれば「西鴻臚館」を廃止するのが良さそうに思えるが、どんな「意図」があったのか、不明。
延長7年(929)
「渤海国の滅亡」を知り、鴻臚館の役割は終息し、以降「荒廃」が進むことになった。
記録によれば、「三町」だけを残していたようで仁安3年(1168)の記録に名前は出てくる。平安時代末期には火災などで「焼失」していたと考えられている。
結果的に
鴻臚館は渤海使のためだけ
に存在したことになる。
周辺の建物との関係。
西寺
の五重塔は天福元年(1233)までは残っていた。
東寺
(延暦15年(796)建立)の五重塔は焼失してもまた再建されて、いつもこの位置にあった(現在も)。
綜芸種智院
は天長5年(828)に創立され、承和12年(845)頃廃れたとある。一時併存した。
亭子院
は昌泰2年(899)頃造営、少なくとも宇多崩御(承平元年(931))までは普通に使われていたと思われる。鴻臚館の衰退も見守ったか。
西市
は平安時代中期までは存続していた。
東市
は
空也布教
の頃(天慶2年(939))はまだ賑わいがあった。
その他の建物は概ね「平安時代中期以降」なので、鴻臚館とは併存していなかった(と思います)。下の図よりも遥かに
閑散
としていたでしょう。
平安京の鴻臚館周辺の地図
(地図では時代考証をしていない)
平安京の鴻臚館跡地
「東鴻臚館」の跡地には石碑が建っている(現在の下京区千本通花屋町東入下ル(西新屋敷揚屋町))。
併せて
蕪村
の句碑も建っている。蕪村の頃はもう「鴻臚館」は跡形も無かったので、全くの
想像
で詠んだはず。
「西鴻臚館」の跡地には「源氏物語ゆかりの地
西鴻臚館跡
の説明板」が建っていた(下京区朱雀堂ノ口町)のを見たことはあるのですが
(ホテルエミオン京都の工事か、中央卸市場の工事かで)
どこかに移動になったみたいで
(私には)
現在見つけられていない。
こちらは「京都市埋蔵文化財研究所」によって数回発掘調査が行われており、瓦などが出土されて「西鴻臚館跡」であることが確認されている。
東鴻臚館址