(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
蕪村と京都
(INDEX:索引へ)
期間番号 | 期間(開始年〜) | 主な活動 | (作品番号) 作品 | 関連する写真 | 補足 |
1 | 享保元年(1716)生誕〜 (1歳〜) | 現大阪市都島区毛馬町に生まれる。本姓は谷口、名は信章。 池田の「桃田伊信」から絵を学ぶ(とある)。 芭蕉「没後22年の生まれ」ということになる。 | 父は上方の庄屋(筋)ともいわれ、それ程貧しくはなかったらしい。 なぜ俳諧を志したか、早野巴人をどこで知ったか、一切わからない。 一人放逐して大丈夫だったのか、親兄弟は、路銀は、なども不明。 |
||
2 | 享保20年(1735)江戸に上る〜 (20歳〜) | 夜半亭宋阿(早野巴人、日本橋、寛保2年(1742)没)の内弟子に。号は宰町。書は佐々木文山、漢詩は服部南郭に師事。 宋阿の死に伴い7年で江戸を去り、関東・奥羽を遊歴、延享元年(1744)「蕪村」を号す。 | 君が代や 二三度したる とし忘れ(宰町) 最初の俳句か。 | 内弟子=衣食住付きで勉強もさせてもらった、なぜ受け入れられた。 17歳の時上京し(俳号西鳥で句を作り)20歳で巴人に師事、という説もある。 元文3年(1738)刊の句集に「版画の俳画」(宰町の号)が掲載(最初の画か)。 元文5年(1740)には「俳仙群会図」を描いている。 保護者を失ってからは、出家(私度僧)して「奥の細道」を追いかけたか。 |
|
3 | 宝暦元年(1751)上洛〜 (36歳〜) | 俳諧師を目指して、京都へ。望月宋屋(師匠宋阿の京都の門人)の世話になり、椹木町や知恩院袋町あたりに住んだか。 東山を住処にして、あちこちの句会(双林寺、大徳寺など)に参加した。 | 百とせの えだにもどるや 花の主 (ももとせ) (240)時鳥 絵になけ東 四郎次郎 | (百とせ)は1752/3/13双林寺(写真)での句会 (240)は1752夏大徳寺大仙院で狩野元信(四郎次郎)の「四季花鳥図」を見て |
|
4 | 宝暦4年(1754)〜丹後与謝へ (39歳〜) | 絵の修行のため、芳雲和尚(知恩院で知り合った、俳号「竹渓」)の「見性寺」(現宮津市)に身を寄せた(約3年)。 したがってこの期間の句は少ない。 母の実家が与謝であり「与謝に因縁」を感じていたか。 | 辛崎の 朧いくつぞ 与謝の海 (117)春の海 終日のたり のたり哉 (ひねもす) | (辛崎)は「見性寺の住職仲間」句会で詠んだもの (117)は(いつ詠んだかは不明だが、1762説も)明らかに「与謝の海」(写真)を想って詠んだ句に違いない |
|
5 | 宝暦7年(1757)9月京に戻って〜 (42歳〜) | 京に戻って「四条烏丸東へ入町」(長刀鉾町あたり)に住んだ。 1760、結婚(妻「とも」)、与謝を称す(還俗)。 句料は取らず、画も糊口をしのぐ画と「精魂打ち込む画」を描き分ける生活だった(ようだ)。 | (575)秋かぜの うごかして行く 案山子哉 | 写真は京都での住居跡(蕪村が亡くなった住居跡(仏光寺通)の碑) (注)この期間はまだ四条烏丸に住んでいた(特定できず) (575)雲裡房から筑紫行脚に誘われ、妻がいるから断ったときの句 |
|
6 | 明和3年(1766)秋〜讃岐へ (51歳〜) | 画で稼ぐためか、単身「琴平、丸亀、高松」を廻る(72歳の同人「丈石」と同道、約2年)。 1767「倣銭貢山水図」(琴平臨川亭)、1768「蘇鉄襖絵」(丸亀妙法寺、現屏風、重文)などを描く。 | 長尻の 春を立たせて 棕櫚の花 | (長尻)は丸亀を発つとき(1768/4/23)に。丸亀妙法寺に「棕櫚=蘇鉄」「句碑」がある 蕪村も琴平では写真のような光景を見たか |
|
7 | 明和5年(1768)5月再度京に戻って〜 (53歳〜) | 「三菓社」で精力的に句会を開催。 1770夜半亭二世を継ぎ、宗匠に。 1773「蕪村七部集」成る。 1775「仏光寺通烏丸西入釘隠町」に移転(その前に「室町通綾小路下町」を経たか)。 | (209)菜の花や 月は東に 日は西に (581)黒谷の 隣はしろし そばのはな | (209)は1774、生誕の淀川べりを想ってとか、六甲摩耶山近くで詠んだとか (581)は1776「題白川」として詠まれた(写真は蕎麦でなく「菜の花」が咲く黒谷) 1771「十宜図」(国宝)を描く |
|
8 | 安永6年(1777)蕉風復古〜天明3年(1783)没 (62〜68歳) | 1777病む。 1779蕉風復古の「壇林会」を結成(宗匠=蕪村、会頭=几董)。 1782金福寺に芭蕉庵を再興。 1783/12/25没、1784/1/27金福寺に納骨(写真)。 1780「夜色楼台図」(国宝)「鳶烏図」(重文)を描く。 | (740)我も死して 碑に辺せむ 枯尾花 (ほとりせむ) (868)芭蕉去て そののちいまだ 年くれず しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり | (740)は芭蕉翁碑を1781/6金福寺に建立したときの句 (868)は「蕪村句集」掉尾の句 (しら梅)は辞世3句の最後の句(本当に最後の発句) |
(作品番号) 作品 | 備考 |
哀れなる 花見は死出の 山路かな | 享保18年(1733)刊の句集に「西鳥」号の句が掲載、これが蕪村なら「最初の句」になる |
我泪 古くはあれど 泉かな | 「宰鳥」の号があるから寛保2年(1742)頃か |
古庭に 鶯啼きぬ 日もすがら | 「蕪村」号としての初発句か |
相阿弥の 宵おこすや 大もんじ | 最初の上洛してすぐの句か |
実ざくらや 死のこりたる 庵の主 | 双林寺の西行を偲んで |
(318)夏河を 越すうれしさよ 手に草履 | 丹後加悦(与謝の近く)の野田川で、宝暦4年(1754)か |
春風や 堤長うして 家遠し | 生誕地の淀川べりを想って詠んだ、宝暦7年(1757)か |
(357)離別れたる 身を踏込んで 田植哉 | (さられたる)(ふんごんで)と読む、宝暦8年(1758)より前 |
(176)花に遠く 桜に近し よしの川 | 吉野に出掛けたのは宝暦13年(1763) |
(728)巨燵出て 早あしもとの 野河哉 | 高松にて、明和4年(1767)か |
象の眼の 笑ひかけたり 山桜 | 讃岐「象頭山」を詠んだ、明和5年(1768) |
(612)鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分哉 | 明和5年(1768) |
(346)さみだれや 大河を前に 家二軒 | 安永6年(1777) |
(622)水かれて 池のひづみや 後の月 | (のちのつき)と読む、広沢池にて |