(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
芭蕉と京都
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芭蕉といえばおくのほそ道が有名だが(左の写真) 芭蕉は何回も上洛して句を詠んでいる。 そこで「京都で詠まれた芭蕉の俳句」について整理した。 (注)句の解釈などは「新潮日本古典集成 芭蕉句集」に準拠している。 |
上洛番号 | 上洛期間とその間に詠まれた作品番号 | 主な活動 | (作品番号) 作品 | 関連する写真 | 補足 |
1 | 貞享2年(1685)2月下旬〜半月 (236〜238) [42歳] | 奈良(竹内)から京に入り 鳴滝の三井秋風別荘(花林園)に滞在 伏見西岸寺で238を詠んで、大津へ この3句は野ざらし紀行に採られている | (236)梅白し 昨日や鶴を 盗まれし | 三井秋風の別荘が鳴滝のどこにあったかは不明 三宝寺バス停の手前に「鳴滝(御室)川」へ降りる細道があり、降りたところに「句碑」がある 鳴滝と言えば、三宝寺(寛永5年(1628)創建、写真)があり、芭蕉も訪れたに違いない |
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2 | 貞享5年(1688)4月23日〜5月上旬 (413〜414) [45歳] | 笈の小文(紀行)を須磨で終えた帰路 (山崎の)宗鑑屋敷で杜若413を詠み 4/23から門人杜国と京都見物 吉岡求馬(大阪の俳優)の歌舞伎鑑賞(5/4) 翌日求馬が急逝し、追善で詠んだ | (414)花あやめ 一夜に枯れし 求馬哉 | 求馬(もとめ)のあでやかさと悲しみが偲ばれる句(5/5) 阿国が慶長8年(1603)四条河原で歌舞伎を始め、すぐに南座ができた。芭蕉の頃は河原にあった南座か 写真は「河原を望む阿国像」 |
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この間に奥の細道の旅(元禄2年(1689)3月27日〜同8月21日)をしている | |||||
3 | 元禄2年(1689)12月24日〜年末 (603のみ) [46歳] | 奈良から井出(井手のこと)を経て上洛(今回は) 去来宅(中長者町堀川東入ル)で 「鉢叩き」を聞くのが目的だった 年末には義仲寺へ戻った | (603)長嘯の 墓もめぐるか 鉢叩き | 長嘯子(木下勝俊)の墓は円徳院、遺跡は正法寺近くにある 「鉢叩き」とは空也堂(写真)の半僧半俗が空也忌(旧暦11/13)〜大晦日の間「鉢を叩き・和讃念仏を唱え」ながら七か所の墓所を巡る行。句は12/25 |
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4 | 元禄3年(1690)6月上旬〜18日 (638〜640) [47歳] | 幻住庵から上洛 この頃から野沢凡兆宅を定宿に (小川通椹木町上ル) 6/19には幻住庵に戻った | (639)川風や 薄柿着たる 夕涼み | 「四条の川原涼みとて、・・・川中に床を並べて夜すがら酒飲み・・・」と詞書があるから、鴨川納涼床(写真、勿論現在とは少し形態が違うが)で詠んだ句 | |
元禄3年(1690)9月27日 (647) [47歳] | 再度幻住庵から上洛 (想像:賛を届けるために(東寺近くまで)出かけてきた) 一泊二日で帰った | (647)こちら向け 我もさびしき 秋の暮 | 東寺(写真)観智院の僧「北向雲竹」の自画像に「賛せよ」と言われて賛を書き(6/19)、併せて詠んだ句(多分9/27) 句は(京都を詠んで)幻住庵で認めた |
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元禄3年(1690)11月上旬〜12月23日 (666〜671) [47歳] | 伊賀から上洛 (多分、凡兆宅に滞在) 12/23大津に戻って、義仲寺で越年 | (669)半日は 神を友にや 年忘れ | 上御霊社(写真)別当の法印小栗栖祐玄(俳号=示右)亭での「年忘れ」発句(12/下) 境内に句碑がある |
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5 | 元禄4年(1691)4月18日〜6月10日 (692〜706) [48歳] | 大津から宇治(692-693)を廻って上洛 4/18〜5/4は落柿舎(694〜703) この間の日記が「嵯峨日記」になる 5/5〜6/10は凡兆宅(704〜706)滞在し詩仙堂へも | (698)憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 (703)五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡 (705)風薫る 羽織は襟も つくろはず | 「閑古鳥」の句は金福寺(現在、境内に句碑がある)で詠んだ句(4/22の条に「ある寺で詠んだ句」とある) 「五月雨」の句は「嵯峨日記」の掉尾を飾る句、落柿舎(写真)を去る(5/4)寂しさが滲んでいる 「風薫る」の句は「詩仙堂 丈山の像」を見て(6/1) |
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元禄4年(1691)6月13日〜25日 さらに7月中旬まで大津−京都を往来 (句なし) [48歳] | 凡兆宅 および中村史邦宅にも 俳諧七部集の五「猿蓑」出版のため (井筒屋庄兵衛板(寺町二条上ル)) | (句なし) | 忙しく雑務の日々を送ったか 史邦宅がどこにあったかは不明 芭蕉が大津から上洛するときどの道を使ったか明確な資料はないが、山科追分(写真)を歩いたのは間違いないと思う |
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元禄4年(1691)9月中旬 (710〜711) [48歳] | 大津から上洛 (多分、凡兆宅に滞在) 9/23には義仲寺(木曽塚の無名庵)に戻る (帰路、羅生門跡に立ち寄る) | (710)荻の穂や 頭をつかむ 羅生門 | 9/23の句 芭蕉の頃にはもう羅城門は無かった。写真のような「石碑」も無かった(と思う)。なにを目印に訪ねたのか |
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この間におくのほそ道(紀行)を執筆(元禄5年(1692)5月頃〜元禄7年(1694)4月完成)している | |||||
6 | 元禄7年(1694)閏5月22日〜6月15日 (871〜879) [51歳] | 大津曲水亭から上洛 落柿舎に滞在 6/15には膳所に帰る | (874)六月や 峰に雲置く 嵐山 (879)松杉を ほめてや風の かをる音 | 「六月や」の句は、炎天下大堰川のほとりまで来て詠んだ句(写真はイメージ、雲が足りない) 「松杉を」の句は常寂光寺で詠んだ句 |
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元禄7年(1694)7月5日〜10日 (891) [51歳] | 義仲寺から上洛 桃花坊の去来宅に滞在 (聖護院近く) 7/10京都を出て(これが京都最後) 伊賀上野へ 元禄7年(1694)10月12日没 | (891)七夕や 秋を定むる 夜のはじめ | 七夕の日(7/7)、仙洞御所の元役人「野童」亭で詠んだ句 「桃花坊」は「一条二〜四坊」を意味する古語(長安に倣った表現、写真はその区画の中心地「聖護院門跡」) |
(作品番号) 作品 | 句碑の場所(ほとんど未確認ですが) |
(236)梅白し 昨日や鶴を 盗まれし | 鳴滝(北音戸山橋) |
(238)わが衣に 伏見の桃の 雫せよ | 伏見西岸寺(油懸地蔵) |
(413)有難き 姿拝まん かきつばた | 大山崎(西谷21−1) |
(669)半日は 神を友にや 年忘れ | 上御霊神社 |
(692)山吹や 宇治の焙炉の 匂う時 | 三室戸寺、萬福寺の両方に |
(697)ほととぎす 大竹藪を 漏る月夜 | 車折神社(嵯峨朝日町23) |
(698)憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 | 金福寺 |
(703)五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡 | 落柿舎 |
(874)六月や 峰に雲置く 嵐山 | 大悲閣の参道 |
(875)清滝や 波に塵なき 夏の月 | 清滝(渡猿橋と落合橋の両方に) |
真葛ヶ原の芭蕉堂 | 金福寺の芭蕉庵 |
芭蕉を偲ぶため、双林寺に近い「真葛ヶ原」に、加賀の俳人「高桑闌更」が営んだ。 | 天明2年(1782)蕪村らが「蕉風復古」の活動の一環として「金福寺」に(1691年仮住まいした)「芭蕉庵」を再興した。 |