高台寺山
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★★
★★★
★
★★★
2.6
山頂の特定(
地図
)
山頂を記述した資料は見当たらない。
地形図から見ても東山の街から見ても
高台寺背後にあるピークが山頂
と思われる。
地形図で
は完全な単独ピークになっており
標高200m
とある。
林の中の6畳くらいの広さのピークになっている。西側は開けているが、樹木があって町はよく見えない。
登頂記録
東大谷墓地のてっぺん(26区)から高みを目指して道なき稜線を攀じ登った。初登頂は、H15-5-3。このときは山頂でゴジュウカラが歌っていた。
山頂から北へ50mほど行けば「知恩院−将軍塚ルート」へ出る。よくよく見るとこのルートに
「高台寺」を示す石標がある
。この石標さえ見つけられれば、ルートとしてはこの方がわかりやすい。
さらにその石標から東へ行けば、道はぐるっと廻って南西へ下り、途中で菊谷川沿いに下りることになる。そのまま下りれば高台寺へ出られる。
この道の入り口には
「左 菊渓」の石標
もあります。
本HP閲覧者の「さくらいさん」の情報によれば、「キクタニギク」というお茶花が咲くようです。
菊に関して、下記の「雍州府志」に「菊潭水、其の一也。山中の渓間に菊多し」との記述がある。「山中の渓間に菊多し」にあたるのが「
菊渓
」であり、菊谷川、キクタニギクがこの関連である。
「菊潭水」も気になりましたので調べてみました。
「きくかわすい」と読むらしい。
谷川の両岸に自然の菊が生え、その下を流れる水を菊潭水と言うらしい。
薬を煎じたり、お酒(菊酒)を作ったりするのに使われる。
「雍州府志」によれば、高台寺の谷間の菊潭水は、日本一ということになる。
高台寺山
一言で言えば
高台寺の背後にある立派な山容の山
。
東山の観光地から南隣の「霊山」と並んで立派な山に見える
。
山頂と高台寺の間には東大谷山の墓地が広がっている。
名前のとおり「粟田口高台寺山町」にある。
江戸時代の
高台寺山
(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベースから)
右下の「高台寺」
(から東)
の
背後
に「
高台寺山
(図では「
白山嶺
」)
」が描かれている。当時は「白山嶺」と呼ばれていたか
山の中腹に「
傘亭
・安閑窟」「
菊渓
(図では菊谷)
」も描かれている
高台寺
豊臣秀吉夫人北政所が秀吉の母の菩提寺康徳寺をこの地に移して高台寺と改称した。諸堂は慶長11年(1606)に完成した。高台寿聖禅寺(しょうじゅ)。山号は鷲峰山(じゅぶさん)。
北政所は秀吉死後、伏見城を出て京都
三本木
(現在の京都御所の西南あたり)に退いた。その後康徳寺を創建してそこに移り、徳川家康によって造ってもらった高台寺に移りここで寛永元年(1624)
(9月)
天寿を全うした。
高台寺蒔絵で知られる霊屋(おたまや)・
表門
・開山堂・観月台・傘亭・時雨亭(重要文化財)が有名。
住所は「東山区下河原町」。
「ねねの道」からの入口「台所坂」
表門
(今は、少し離れた感がある)
ねねの道に建つ「
高台寺
石標」
近くの仏閣神社
霊山観音
第2次世界大戦戦没者の冥福を祈って建てられたもの。どの宗派にも属さない。
円徳院
北政所没後、寛永9年(1632)兄木下家定の次男利房のよって創建された木下家の菩提寺。
木下家定の長男勝俊が
長嘯子
。
菊渓
の石標
高台寺の向かいの
円徳院
石塀小路にある
玉半
近くの旅館
玉半
石塀小路にある極めて日本的な旅館。
柊屋・俵屋・炭屋並に料金は極めて高いが、部屋数が少ない分、落ち着ける。
静かにしたくてお金があるときには一泊の価値はあるが、閉業した。
雍州府志での記述
鷲峯山(わしがみねざん)
高台寺の上に在る。即ちこの寺の主山。菊潭水、其の一也。山中の渓間に菊多し。
「花洛名勝図会」には「じゅほうざん」とある。
東山国有林風致計画での記述
鷲峯山
高台寺の上にある。
高台寺山頂
霊山観音越しに見る高台寺山
知恩院−将軍塚ルートの「高台寺石標」
山頂から西側(市街)を見る