霊山
(INDEX)
独断評価 | 発見難易度 | 登頂体力度 | 頂上眺望度 | 山行愉悦度 | 総合評価 |
5点満点 | ★★★ | ★★★ | ★★★ | ★★★ | 3.0 |
- 山頂の特定(地図)
- 正法寺本堂左奥の墓地から墓地の裏へ回り込むように登る。後は山道が比較的しっかりついていて、やがて春畝伊藤(博文)公遺詩碑に着く。その少し先の開けたピークが霊山頂と思われる。
- 西に向かって開けており比較的眺望が得られる。
- この山頂は「霊山城」であったらしい。
- 京都市遺跡地図台帳には「天文21年(1552)足利義輝によって築かれた山城である。天文22年落城」と記載されている。
- カシミール・数値地図では168〜170mしかないが、1万分の1地形図では176mある。数値地図がおかしいと判断して地形図の標高176mを採用した。
- 登頂記録
- H15-5-3初登頂。
- このときは東山トレイル19番標識を北西へトレイルを外れる方向へ歩いて登った。いくつもルートはあるがこのルートが一番わかりやすい。
- 霊山護国神社からのルートは、最近神社の最東に柵ができて登ることができなくなった。
- 霊山
- 一言で言えば正法寺の背後の立派な山容の山。
- 霊山護国神社の真後にある山と言った方がわかりやすいかもしれない。
- 東山の観光地から北隣の「高台寺山」と並んで立派な山に見える(参照東山三十六峰の近接関係)。
- 霊山の麓には、正法寺と霊山護国神社が並んでいる。
- 清少納言は「枕草子」第194段で「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるか、あわれなり。云々」と読んでいる。
- 「清閑寺霊山(りょうさん)町」の北東隅にある。
- 正法寺(しょうぼうじ)
- 山の形がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから、伝教大師が光孝天皇の勅願を得て天台宗「霊山寺」を創建。したがって読みも「りょうせん」となる。
- その後国阿上人が時宗国阿派の本山として復興し「正法寺」と改めた。住所は「東山区清閑寺霊山町」。
- 「霊山」と通称される。
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正法寺(長い坂道を登って漸く山門) |
正法寺の山門。この先(通常)非公開 |
高台寺から見る八坂の塔(法観寺) |
- 近くの仏閣神社
- 京都霊山護国神社
- 明治元年(1868)明治維新の志士の霊を祀るために創立、「霊山官祭招魂社」と称した。
- 昭和14年(1939)当時の内務大臣指定で「京都霊山護国神社」と改称。
- 法観寺
- 法観寺の五重塔が八坂の塔(重要文化財、地下式の心礎がある)。永享12年(1440)再建。高さ36m。
- 法観寺の寺伝によれば聖徳太子が如意輪観音の夢告により八坂氏(帰化人一族)に建立させた。寺号は霊応山(れいおう)。臨済宗建仁寺派。創建当初は延喜式七ケ寺の一つで四天王寺式の大伽藍を構えたと伝えられるが、現在は五重塔・薬師堂・太子堂を残すのみ。
- 興正寺霊山本廟
- 真宗興正派本山の興正寺(西本願寺に南接)は、清閑寺霊山町に「霊山本廟」を構えていて次のように謳っている。
- 霊山本廟は東山三十六峰の一つ霊山にあり、山の形がインドの「霊鷲山」によく似ていることから「霊山」と名づけられた。霊山本廟の境内地は、法然上人が別時念仏を修せられ、後に時宗の国阿が霊鷲山霊山寺を建てて、法然上人の別時念仏の道場を再興された由緒ある土地である。
- 現在の建物は明治11年(1878)建立。正法寺との関係を紛らわしくしている。
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興正寺霊山本廟への参道 |
案内の石柱には霊山本廟とある |
興正寺霊山本廟 |
- 近くのグルメ
- みしな
- 二年坂にある洋食屋。「ビーフシチュー定食」がお薦め。最後に出てくるお茶漬けが京都らしい。4,500円(H14現在)。
- 先代が祇園で「グリルつぼさか」を出しており、当代の名前(先代の娘さんのご主人の名前)「三品」で場所替えして開店。味は受け継がれている。
- 「さどやのワイン」が出るのも懐かしい。
- 雍州府志での記述
- 霊鷲山(りょうじゅせん)
- 正法寺の上に在る。山上に普広院義教公(応永元年(1394)〜嘉吉元年(1441))の城址が有る。
- (注)「山頂の特定」参照。京都市遺跡地図台帳によれば、足利義教の築城ではない。記述誤りか。
- 「花洛名勝図会」には「りょうじゅさん」とある。
- 東山国有林風致計画での記述
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霊山頂 |
山頂近くにある春畝伊藤公遺詩碑 |
霊山観音越しに見る霊山 |
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正法寺下山路からの眺望(遠くは愛宕山) |
正法寺本堂(この間から墓地へ抜ける) |
霊山護国神社への下山路 |