(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

橘氏を盛り立てた2人の女性           (INDEX:索引へ)


「源平藤橘」で有名な「橘氏」。日本史では「比較的短い期間」天下の中枢にいた。
2人の女性を中心に調べて、整理した。

    橘三千代    橘諸兄    橘奈良麿    橘嘉智子    橘逸勢    橘氏の後裔
井手寺跡梅宮大社
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橘諸兄が、本拠にしていた「井手」の地に橘氏の「氏寺」として建立した(と伝えられている)。写真は「井堤寺の柱跡」のあった場所(井手町)御由緒には「三千代橘氏の氏神として始めてお祀りした神社」で「当初、井手町。後、平城京に移し、さらに嘉智子が現在の地に遷した」とある
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橘諸兄公旧跡(恭仁京)馬場南遺蹟橘諸兄公供養塔
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大きな碑が現在の「綴喜郡井手町」にある。邸宅と思われるが、高台にあって井手町を見渡せる「橘諸兄の別業」があったと思われるが、今は宅地開発に呑み込まれ、跡すら見えない墓は伝承地が3個所あって判明し難い。写真は井手町「地福寺」にある供養塔


橘氏(三千代〜嘉智子)の家系略図
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「赤線」は「藤原氏」。(注)子供の長幼の順は反映していない、多比能は前妻の子との説が有力
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橘嘉智子の人脈略図
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「赤線」は「藤原氏」。(注)子供の長幼の順は反映していない
冷然院檀林寺学館院のあったところ橘嘉智子の陵墓
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嵯峨天皇譲位後(弘仁14年(823)以降)嵯峨と嘉智子は後院としてここに住み、嘉智子はここで亡くなった現在の寺は昭和39年(1964)当初の地とは違う所(祇王寺近く)に建てられた学館院の跡は(石碑なども)残っていない。現在は「朱雀公園・野球場」(写真)になっている「嵯峨陵」と呼ばれる。「嵯峨野」でも山深い(嵐山駅から徒歩40分)。現在もこの先は「通行止」
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橘逸勢の住んでいた所「下御霊神社」
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左京三条二坊十一町の「[虫支]松殿」(はいまつ)。橘氏で唯一住居がわかる人物早良親王・伊予親王と共に(陰謀で流刑された)橘逸勢の怨霊封じで祀られている
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