(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

和泉式部の歌           (INDEX:索引へ)


「情熱的な恋愛歌の名手」として知られる『和泉式部』について調べようとすると、まとまったものとしては和歌関連の史料しかない。
そこで「恋愛歌とその対象者」という観点で「和泉式部の一生」を追いかけてみようと思う。うまくまとまるか。

    源頼光    橘道貞    弾正宮為尊親王    帥宮敦道親王    道命阿闍梨    藤原保昌    源頼信    (有名な歌)

実家出水通堀川西入ル大江邸(烏丸通高辻の南東角)赤染衛門
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大江雅致の家は、往時の「内蔵町」の一角の「小さな屋敷」であったと思われるこの町には「橘行平邸」があり(長保5年(1003)から因幡堂(写真)に)それに隣接していたか幼年期「大江邸」で「母の如く」お世話になった

大江山小式部内侍参考史料
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源頼光の「酒呑童子」と「大江邸」続きで「大江山」が連想される「大江山」と言えば小式部内侍「和泉式部日記・和泉式部集」の他「今ひとたびの、和泉式部(諸田玲子、小説)も参考にした

三条道貞邸姉小路通堀川東入ル岩倉家太皇大后「昌子内親王」の陵
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昔、橘逸勢邸のあった辺りの一角に、「橘」邸が跡を引き継いでいたのだろう平安京からこんなに遠い、行くのも大変写真は「大雲寺の旧地跡」近くの「閼伽井堂(観音水の湧き出る井戸)」、この辺にあったと思われる写真は「大雲寺の旧地跡」の脇にある「御陵」、ここで弔うために引っ越した

世尊寺今出川通小川-桃薗学区藤原伊尹弾正宮への挽歌
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長保3年(1001)2月行成は祖父伊尹の供養会を世尊寺で行った(今は無い)。ここで二人は密会した世尊寺の地は、行成の祖父伊尹の「桃薗第」長い間、泣き続けた

東三条院白河院(藤原公任の山荘)
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藤原超子(とほこ、冷泉女御)の実家で、子の帥宮は二町の南院に住んでいた(一町・二町=東三条院)後の「白河院」は白河天皇の法勝寺になったが、この頃は「公任の山荘」だった(のだろう)

土御門殿一条院枇杷殿
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彰子の実家(藤原道長の邸宅)だから、彰子が宿下がりするときには同道したはず彰子の夫・一条天皇の里内裏なので、彰子が同道するとき、和泉式部も同道した彰子が皇太后になって、ここを皇太后内裏にしたので、和泉式部もここに詰めることが多くなった

丹後「与謝の海」和泉式部を偲ぶなら
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『よさの海に 浪の夜昼 眺めつつ 思ひし事を 言ふ身ともがな』これも丹後で詠んだ歌東北院へ行けば和泉式部遺愛の梅が見られる写真はないので、かるたの絵札で偲ぶ誠心院(新京極)へ行けば「和泉式部の墓」という宝篋印塔(正和2年(1313)銘)が見られる

clickすれば大きな画像以上の経緯を年表にまとめると左のようになる



第1列:西暦
第2列:年齢(数え年)

記号:「←→」は行ったり来たり

   「 / 」は(原則)順次移動

背景=緑:彰子の女房として傍に侍った期間
      (当然「宿下がり」はしている)