55.大納言公任
きんたふ 藤原公任 上の句順 下の句順
(INDEX)
たきのいとは |
たえてひさしく |
なりぬれと |
なこそなかれて |
なをきこえけれ |
滝の糸は |
絶て久しく |
なりぬれど |
名こそながれて |
なをきこえけれ |
滝の糸は |
絶て久しく |
なりぬれど |
名こそ流れて |
なを聞こえけれ |
■親族歌人 藤原定頼の父
- ■歌について
- 大覚寺の古滝を見て詠った歌。「名こその滝」と呼ばれる。拾遺集には「滝の糸」、千載集には「滝の音」とある。
- ■出典
- 拾遺集雑上一
- ■作者略歴
- 966-1041。太政大臣藤原実頼の孫、太政大臣頼忠の子。和漢、和歌、書、管弦、いずれにも才能を発揮、万能。色を好まず、常に閑寂を楽しんだ、といわれる。和漢朗詠集を撰した。
- 【補】
- 藤原公任の詠んだ「名こその滝」(長保元年(999)、当時、従三位右衛門督)は、今もその址を残している。
- 藤原公任は小野宮一門の公卿。九条家に圧倒され、最後は藤原道長に追随した。
- 藤原公任は一時白河院(和泉式部も訪れたことがある)に住んでいた(後に白河上皇が使う)。最終的には「左京四条三坊四町」の「四条宮」を引き継いだので「四条大納言」と呼ばれた。
- 藤原公任は自ら選出した三十六歌仙(寛弘9年(1012)頃)に和泉式部も加えた。
- 清少納言とも歌のやり取りは多く、枕草子では藤原公任の歌「草の庵」を引用している。
- 清少納言が宮中から下がってからも、歌のやり取りはしていたようです。
- 藤原公任の長女が藤原教通と結婚したことで、北山荘に関連していろいろな話が残っている。
- 公任の弟「最円」が「小野郷長谷の解脱寺」入っていたこともあり、「解脱寺に近い谷間=小野郷長谷」に北山荘を構えた。
- 北山荘で儀式書「北山抄」(10巻、治安元年(1021)頃完成)を書き、万寿2年(1025)解脱寺で出家、北山荘に隠棲し長久2年(1041)ここで亡くなった。
- この北山荘は「最円」に遺贈され、後にその弟子の「静覚」(公任の長女と藤原教通の間の四男、藤原歡子の同母弟)に遺贈された。
- さらに、公任の孫(公任の長女と藤原教通の間の三女)藤原歡子が延久6年(1074)皇太后になってから、この北山荘を引き取って「常寿院」に改め、ここで出家した。
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