59.赤染衛門
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やすらはて |
ねなましものを |
さよふけて |
かたふくまての |
つきをみしかな |
やすらはで |
ねなまし物を |
さよ更て |
かたぶくまでの |
月を見しかな |
やすらはで |
寝なまし物を |
小夜更て |
傾くまでの |
月を見しかな |
- ■歌について
- 藤原道隆が訪ねて来るのを夜通し待っていたが、遂に現れなかった。その女房のために、その恨みを代作して贈った。
- ■出典
- 後拾遺集恋二
- ■作者略歴
- 生没年未詳。衛門尉大隅守赤染時用の娘。一説に平兼盛の胤ともある。大江匡衡の妻。藤原道長の妻倫子(ともこ)に仕え、歌の巧さで名声を得た。
- 【補】
- 夫大江匡衡の関係で「母の如く」(21歳年下の)和泉式部の面倒を見た。
最近の研究による「作者略歴」
- 天暦11年(957)出生説が有力。母の名前・出自などはわかっていない。
- その母は、平兼盛との子を身籠ったまま、赤染時用の後妻に入った。したがって「実の父は平兼盛」が事実のようで、赤染衛門自身も「知っていた」ようです。
- 天延2年(974)18歳の頃、源雅信邸に出仕。
- そして天延3年(975)19歳のとき「上の和歌」を詠んだ。訳注者「島津忠夫」氏は「ある女房」のための代作と述べているが、赤染衛門の姉のための代作が正しいようです。
- 初め「大江為基」に恋したが、結局は貞元元年(976)為基の従兄弟「大江匡衡」(5歳年上)と結婚。
- 匡衡との間に、1男2女をもうける。長女は後に「江侍従」(やはり歌人で、(赤染衛門の縁故で)藤原道長に仕えた)になる。そして「長男の孫」が大江匡房。
- 大江匡衡は大江雅致の弟(という説が有力)で、和泉式部は「義理の姪」にあたる。
- 永延元年(987)(12月)「雅信の娘倫子」が藤原道長と結婚したことに伴い「倫子に仕えた」。
- (16歳年下)同僚の紫式部からも好かれていたようです。
- 長保3年(1001)大江匡衡が尾張権守に任じられたとき、一緒に赴任した(寛弘2年(1005)まで)。
- この間に姪の和泉式部の恋愛問題があり、赤染衛門は尾張から和泉式部に忠告の手紙を送っている。和泉式部と別れた橘道貞は陸奥に下向する折、尾張の匡衡・赤染衛門を訪ねている。
- 赤染衛門は誰に対しても面倒見が良い。
- 寛弘6年(1009)大江匡衡が尾張守に任じられ、再度一緒に赴任したが、翌年丹波守になり、1年で戻ってきた。
- 寛弘9年(1012)大江匡衡没。この頃から栄花物語を書き始めるか。
- 栄花物語(正編30巻)の「物語部分(巻15以降)は赤染衛門の作」という説が有力。「物語部分以外は大江匡衡の記録を赤染衛門が整理した」だけらしい。
- 寛仁3年(1019)63歳頃(長男・挙周が和泉守になり、安心して)出家したか。
- 尾張に下向したときに(長保3年(1001))「倫子への出仕」は終えたのだろうが、尾張から戻ってきても(寛弘7年(1010))機会あるごとに「倫子・娘彰子の周辺」には司候していたようです。
- (彰子の弟)関白藤原頼通の奨めもあり私家集(榊原本では614首)も集成した。長久3年(1042)86歳頃完成したか。
- 頼まれて和歌を詠むことが多く、代作は(私家集の中に)60首ほどある。代詠歌の名人と言われる。
- 没年は不明。90歳近くまでは生きた訳だから、大往生であろう。