(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
(小倉百人一首の)女性たちの役職
(INDEX:索引へ)
官司 (職場) | 管理層(括弧内は、位階、定員) | 一般層(同左) | 職掌 | 対応する 男性官司 |
||
長官 | 次官 | 判官 | ||||
内侍司 | 尚侍(従三位、2名) | 典侍(従四位、4名) | 掌侍(従五位、4名) | 女孺(散位、100名) | 天皇に常侍、奏請・伝宣、禁内儀式の管掌 | 侍従(中務省)、大納言・少納言 |
蔵司 | 尚蔵(正三位、1名) | 典蔵(従四位、2名) | 掌蔵(従五位、4名) | 女孺(散位、10名) | 神璽・関契(関所の割符)の管理、彰賜 | 内蔵寮(中務省) |
書司 | 尚書(従六位、1名) | 典書(従八位、2名) | ---- | 女孺(散位、6名) | 書籍の管理、紙・筆などの管理 | 図書寮(中務省) |
膳司 | 尚膳(正四位、1名) | 典膳(従五位、2名) | 掌膳(正八位、4名) | 采女(散位、60名) | 天皇の食膳、毒味 | 内膳司(宮内省) |
【役職】第41代天皇(第40代天武天皇の皇后でもある) (奈良時代の人なので、その他の記述は少ないがこちらも参照してください) |
【役職】第31代斎院(後白河天皇の第三皇女) 【職場】賀茂斎院(内親王なのでそれ以外に仕事は無い) 【主な居住地】こちらに詳述した(平安時代末期、内裏、里内裏、御殿を彷徨った) |
【役職】後冷泉天皇典侍(一条皇太后彰子に女房として出仕し、後冷泉即位時に典侍に) 【最終位階】従三位(略歴はこちらに記述した) 【職場】(皇太后彰子に仕え、後冷泉の乳母になったので)東三条殿(が長かったか)、 (後冷泉が即位してからは)高陽院。 |
【役職】後冷泉天皇掌侍(後冷泉の女房として出仕し、後三条・白河・堀河いずれかの時に(能力が認められて)掌侍に取り上げられた) 【最終位階】正五位下(略歴はこちらに記述した) 【職場】(天皇の女房、後に掌侍だったので、各天皇の内裏・里内裏についていったか) |
【役職】円融天皇内侍(として「高階貴子の名前」で出仕した、当時従五位上だったので掌侍だったか) 【最終位階】正三位(定子を産み、定子が一条中宮になった時従五位上から昇叙した。略歴はこちらに記述した) 【職場】(内侍で、後に中宮の生母になったので、各天皇・中宮の傍にいたと考えられる) |
【役職】宇多天皇女御温子(よしこ)女房(后妃の女房として出仕したが、宇多およびその皇子敦慶親王の子も産んでいる) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(宇多の時は)内裏(温子のどこかの局をもらっていたはず)、 (敦慶親王の時は)亭子院(宇多退位後、温子の転居先=左京七条二坊十三町)。 |
【役職】醍醐天皇中宮穏子(やすこ)女房(女房として出仕したが、和歌と貴族との恋愛以外に記録が無い) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(穏子は)内裏「昭陽舎」(で亡くなっているので、ここが局だったか)。 (先頭へ) |
【役職】一条天皇皇后定子女房(正暦4年(993)女房として出仕し、長保2年(1000)定子崩御で退下) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】こちらに詳述した(登花殿、(一時)梅壺、大内裏の職御曹司)。 【内裏での居住地】「登花殿」の西廂の細殿(の1室)が房だった(女房の房がわかっているのは清少納言だけ)。 |
【役職】一条天皇中宮彰子女房(寛弘2年(1005)女房として出仕し、寛弘8年(1011)一条譲位の頃退下) 寛弘4年(1007)掌侍に任官された、という説もある(でも位階は不明)。 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(彰子の局は)内裏「飛香舎」(だったので、ここで働くことが多かったか)、 (出産などで彰子が実家に帰った時は)土御門殿(一条院、枇杷殿も)。 |
【役職】一条天皇中宮彰子女房(寛弘4年(1007)頃女房として出仕し、康平3年(1060)頃まで働いたか) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(初めは紫式部と同じ)内裏「飛香舎」(その後は和泉式部と同じ)土御門殿、一条院、枇杷殿など、 (晩年には幼少時の白河天皇教育係もやっているので再度)内裏(の中のどこかは不明)。 |
【役職】一条天皇中宮彰子女房(寛弘6年(1009)女房として出仕し、寛仁4年(1020)丹後へ下ったが 治安3年(1023)から再度出仕し、長元2年(1029)大和に下るまで) 【位階】無し 【職場】こちらに詳述した(土御門殿、内裏「飛香舎」、一条院、枇杷殿などで働いた)。 |
【役職】一条天皇中宮彰子女房(寛弘6年(1009)母和泉式部と共に女房として出仕し、万寿2年(1025)29歳で没した) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】母和泉式部と同じところで働いた(寛仁4年(1020)〜治安3年(1023)は母無しで仕えた)。 (先頭へ) |
【役職】鳥羽天皇中宮璋子女房(天治元年(1124)女房として出仕し、康治元年(1142)璋子出家時ともに出家) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(璋子は)三条西殿(寝殿に、鳥羽は西対・白河は東対にいたから、大変気を遣ったか)。 (璋子は)春日殿(左京二条四坊十町)、二条富小路殿(も御所にしたので、ついていったはず)。 |
【役職】崇徳天皇中宮聖子(きよこ)女房(経歴など一切記録が無い、聖子が皇太后になった永治2年(1142)頃女房か 保元元年(1156)聖子出家だからここまでか) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(聖子の御所は)近衛殿(左京一条三坊十町)、九条殿(左京九条四坊四・五町、だからこれらに同道しただろう)。 |
【役職】一条天皇の第一皇女脩子内親王女房(脩子が出家した治安4年(1024)頃内親王の女房に、脩子は永承4年(1049)没) (その後)後朱雀天皇の第三皇女祐子内親王女房(との説も。とすれば「紀伊」と一緒に仕えたことになる) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(中宮彰子とは仲が悪く)三条宮(位置不明、に別居したとあるから、ここで働いたのだろう)。 (その後は「紀伊」と同じ)。 |
【役職】後朱雀天皇の第三皇女祐子内親王女房(紀伊の母も祐子に出仕していたので、若い頃から出仕したか) (祐子は長寿で長治2年(1105)まで生きた、最後まで仕えたか) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(祐子の御所は藤原頼通が所有する)高倉殿(左京一条四坊一町、と思われるので、ここで働いたか)。 |
【役職】後白河天皇の第一皇女亮子(すけこ)内親王女房(亮子が斎宮退下した保元3年(1158)頃から出仕したか) (亮子が建久3年(1192)出家した折ともに出家、その後も共に過ごしたか) 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】(妹の式子内親王とは別々に住んだようだが、亮子の御所は)不明(わずかに安井御所の名残りがある、いつ頃住んだかも不明)。 |
【役職】関白藤原道長の正室「倫子(ともこ)」に仕える 【位階】無し(経歴はこちらに記述した) 【職場】倫子の「鷹司殿」(左京一条四坊九町で働いたと思われる) 【実家】赤染衛門の夫「大江匡衡(式部大輔)邸」(左京五条三坊十三町)に帰ったときは和泉式部の面倒を見た。 |