90.殷富門院大輔
いんぷもん 上の句順 下の句順
(INDEX)
みせはやな |
をしまのあまの |
そてたにも |
ぬれにそぬれし |
いろはかはらす |
見せばやな |
をじまの蜑の |
袖だにも |
ぬれにぞぬれし |
色はかはらず |
見せばやな |
雄島の蜑の |
袖だにも |
濡にぞ濡し |
色は変はらず |
- ■歌について
- 俊恵法師の後に続いて載っていることから、歌林苑の歌合の歌ではないかと考えられる。「血の涙に濡れる」を思わせる。当時から有名な歌であったが、近世では誇張が目立って秀歌とは評価されていない。「松島や
雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」(源重之)が本歌。
- ■出典
- 千載集恋四
- ■作者略歴
- 1131?-1200?。従五位下藤原信成の娘、といわれる。藤原清輔の歌合によく参加。女房歌人としてよく知られていた。この殷富門院は、後白河天皇の皇女亮子(すけこ)(式子内親王の姉)。
- 【補】
- 仕えていた殷富門院(式子の姉)については式子内親王で簡単に触れた。あまり仲が良くなかった様子。
「殷富門院大輔」はほとんどわからない。
- 父は藤原北家勧修寺流散位従五位下「藤原信成」、母は「菅原在良」。
- 父母の生没年・経歴もよくわからない。勧修寺流なら藤原定方の家系ということになる。
- 大治5年(1130)生まれらしい。
- 「亮子内親王(後の殷富門院)」に仕えた。
- 亮子内親王(後白河天皇の第一皇女、式子内親王・以仁王の同母姉)が斎院を退下したのが、保元3年(1158)だから、同年29歳になって「出仕」したのだろう。
- 亮子内親王(殷富門院)より「17歳年上」、出仕した場所は三条高倉第ということになる。
- 早速、永暦元年(1160)の「藤原清輔の歌合」に参加している。
- 和歌は「殷富門院大輔」で残っているが、この頃は「この名前」ではなかったはずです。
- 安元元年(1175)には「源通親(まだ中将の頃)の歌会」にも和歌を提出している。
- 「秋深き 寝覚めにいかが 思ひ出づる はかなく見えし 春の世の夢」。
- 治承4年(1180)御主人の弟「以仁王の挙兵」失敗があったが(後白河天皇の第一皇女ということで)お咎めなし、どころか後白河天皇の政略で「安徳天皇の准母」にさせられて「皇后」に冊立された。文治3年(1187)退后して「殷富門院」になった。
- ということで、寿永元年(1182)「皇后に仕える」ことになり、文治3年(1187)ようやく「殷富門院大輔」になった。
- 文治3年(1187)以降、気が楽になったか、自ら歌会を催すようになり、(今に残る殷富門院大輔の)和歌も多くなった。
- 建久3年(1192)殷富門院の落飾に伴い自らも出家、(17歳年下の)殷富門院に先だって正治2年(1200)没したらしい。
- 一言で言えば、ずっと殷富門院に仕えた多作家の歌人ということになろうか。
- 現代ではそれ程評価は高くないが、「定家好み」だったのだろう。
- 「恋の和歌」は多いが、浮いた話は残っていない。独身で生涯を過ごした可能性が高い。