92.二条院讃岐
上の句順 下の句順 (INDEX)
わかそては |
しほひにみえぬ |
おきのいしの |
ひとこそしらね |
かわくまもなし |
我袖は |
しほひに見えぬ |
おきの石の |
人こそしらね |
かわくまもなし |
我袖は |
潮干に見えぬ |
沖の石の |
人こそ知らね |
乾く間もなし |
- ■歌について
- 「石に寄する恋」という題詠。磯の石でなく、沖の石を詠んだところに讃岐の技巧が見られる。この歌のおかげで「沖の石の讃岐」との異名を得た。
- ■出典
- 千載集恋二
- ■作者略歴
- 1141?-1217?。源三位頼政の娘。二条天皇の女房として仕えた。後に後鳥羽院中宮の宜秋門院にも仕えた。当時から歌詠みの名高く、歌林苑(俊恵法師)にも交わる。頼政自身も武略だけでなく、和歌をよくして風流の才に富んでいた。
- 【補】
- 二条院讃岐の詠っている「沖の石」は残念ながら福井県(下の地図に示した。父頼政も「若狭に所領」を持っていた)。
- 永万元年(1165)陸奥守などを勤めた「藤原重頼」(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。
- 謎はなぜ「二条院讃岐」と呼ばれるようになったか
- 「二条天皇」ではなく「二条院=二条天皇の追号」であるから、二条天皇崩御(永万元年(1165))後の名前である。
- 「讃岐」と付くのは、皇嘉門院に仕えたことからの「連想」か。
- (この類推が正しいとした場合)永万元年(1165)以前の和歌は「どんな名前」で詠っていたのか。
最近の研究による「作者略歴」
- 永治元年(1141)出生で正しいようです。母は源忠清の娘。しかし「本名は不明」。
- 保元3年(1158)二条天皇が即位、父頼政(平氏政権下での源氏の長老)も昇殿が許され、この機に娘を二条天皇の下に出仕させた。
- 父の歌才を引き継いだか、平治元年(1159)頃から「内裏の歌会」に出るようになり、歌壇で脚光を浴びるようになった。
- ここからが「最近の研究」成果では(後鳥羽院中宮の宜秋門院に仕えたのではなく)
- 永万元年(1165)二条天皇崩御後、(何の縁か不明だが)「夫崇徳が讃岐に流され出家していた皇嘉門院」に出仕するようになった。
- そこでその頃から「皇嘉門院を支援していた和歌の上手い九条兼実(この頃は右大臣であったが閑職)」と知り合い、承安4年(1174)から兼実の同居妻になった。
- こうでないと「以下の説明」がつかない。
- 治承4年(1180)父頼政が「以仁王の挙兵」に応じて敗れ、一族もろとも「自害」または「地方へ脱走」した。なのに娘・讃岐はひとり都で無事に和歌を詠んでいられたのか。
- 九条兼実がかばいとおしたのだろう。平家も寿永2年(1183)までだったので「3年間」。
- 文治6年(1190)(1月)兼実の娘・任子が後鳥羽天皇に入内するとき、讃岐が任子の(母替わりの)「付き添い」をしたとも伝えられる。
- 以降も多くの和歌を残している。
- 建久6年(1195)には歌合で「風かをる 花のあたりに 来てみれば 雲もまがはず み吉野の山」
- 建久7年(1196)、兼実は関白を罷免され、讃岐は出家したから、出家前の最後の和歌か。
- 建保4年(1216)には順徳天皇歌合で「いにしへの 春にも帰る 心かな 雲ゐの花に もの忘れせで」
- この和歌が「現在までに見つかっている」最後の和歌(76歳くらい)。これ「以降の記録」は見つからない。建保5年(1217)頃、亡くなったか。