38.右近
上の句順 下の句順 (INDEX)
わすらるる |
みをはおもはす |
ちかひてし |
ひとのいのちの |
をしくもあるかな |
忘らるる |
身をば思はず |
ちかひてし |
人のいのちの |
をしくもあるかな |
忘らるる |
身をば思はず |
誓ひてし |
人の命の |
惜しくもあるかな |
■友札 わすれじの
- ■歌について
- 男に捨てられたにも拘わらず、その人に神罰があたって死ぬことがないように祈る歌。女の恋心の切なさに、定家は心が動かされた。
- ■出典
- 拾遺集恋四
- ■作者略歴
- 生没年未詳。醍醐天皇穏子(やすこ)の女房。勅撰歌人でもある右近少将季縄の子であることから、右近と呼ばれる。藤原敦忠、師輔、朝忠、源順らと交際があった。
「右近」については「史料」がほとんどなく不明点ばかりですが、分かっていることを整理してみました。
- いくら調べても「生没年は未詳」。名前もわからない。
- 「大和物語」によれば、父は右近少将「藤原季縄」とあるが、季縄は「正五位下・左近衛少将」しか任官しておらず、「右近の父」とは言い難い。
- しかし季縄の和歌は「新古今和歌集」にも採られており、伊勢とも和歌を詠みかわしているので、「右近の父」であってもおかしくはない。
- 「尊卑分脈」によれば、父は左中弁「藤原千乖」(ちしげ、季縄の父)とあるが、千乖も「右兵衛大尉」しか任官しておらず、これまた「右近の父」とは言い難い。
- 母は不詳。
- 「父の縁」で醍醐天皇中宮穏子の女房(中宮の私設雇用者)として出仕した(時期不明)。仕事ぶりもまったくわからない。多くの「歌合」に参加したことぐらいしかわかっていない。
- 穏子の入内は「昌泰4年(901)」、中宮退位は「承平元年(931)」だから、この期間のどこかで「出仕」したことになる。
- 「致仕」の時期、没年もわかっていない。
- 残っているのは「和歌」のみ。それらは(以下に示すとおり)別れた男を想う和歌ばかり。「ふられ上手の歌人」の名が付いても不思議はない。
- 上の和歌(貴方に忘れられた私の身はどうなろうと、仲を神仏に誓った貴方が神の怒りで命を落とすことがないように)が詠まれた時期も不明
- 「大和物語」によればお相手は藤原敦忠のようですが、藤原師輔と解釈する人もいる。
- 折角相手のことを想って詠ったのに、相手から返歌はなかったようです。「右近の片想い」だったか。
- 「おほかたの 秋の空だに わびしきに 物思ひそふる 君にもあるかな」(貴方に飽きられて、今日はいつもの秋より侘しく感じるわ、後撰集)
- 「恋仲だった男が久しく訪れてくれくなった九月に詠む」と詞書にある。
- 「とふことを 待つに月日は こゆるぎの 磯にや出でて 今はうらみむ」(貴方が訪ねて来るのを待っていたのに来てくれなかった。今は海を眺めてもう恨むのはやめることにしますわ、後撰集)
- 「身をつめば あはれとぞ思ふ 初雪の ふりぬることも 誰に言はまし」(初雪が降るごとく私もふられた。とても悲しく思う、後撰集)
- 「男が久しく通って来なくなった十月、雪の降る朝に詠む」と詞書にある。