54.儀同三司母

高階貴子 上の句順 下の句順 (INDEX)


わすれしの  ゆくすえまては  かたけれは  けふをかきりの  いのちともかな
わすれじの 行末迄は かたければ けふをかぎりの 命ともがな
忘れじの 行末迄は かたければ 今日を限りの 命ともがな

■友札 忘らるゝ
■親族歌人  藤原道雅の祖母
■歌について
若き頃の道隆と恋しあっているときの歌。男の心の変わる憂き目を見るよりは、変わらぬ先に死んだ方がましだ、と詠っている。
■出典
新古今集恋三
■作者略歴
?-996。高階成忠の娘。関白藤原道隆の妻となり、伊周、定子(中宮)を産んだ。儀同三司とは伊周のこと。伊周が官を復されて、寛弘5年(1008)准大臣になったとき、唐の官名儀同三司と号したのに始まる。


  • 「儀同三司母」については「まとまった史料」がなく不明点が多いが、分かっていることを整理してみました。
    1. 上の和歌は、詞書に「中関白藤原道隆が通い始めた頃」とあるから「天禄4年(973)」頃詠まれたか。
      • 藤原道隆は他にも多くの「妻」を持っていた。少なくとも5人以上。
    2. 長徳2年(996)5月「夜のつる 都のうちに こめられて 子を恋ひつつも なきあかすかな」(詞花集)と詠った。
      • この歌は伊周が左遷で大宰府に向かう折、明石に着いたと聞いて(私は都から動けず離れ離れになったと)詠んだ。人生最後の和歌だと思うが、内容的に「辞世の和歌」ではない。

    3. 1つ変な和歌が残っている。「夢とのみ 思ひなりにし 世の中を なに今さらに おどろかすらむ」(拾遺集)
      • 詞書に「中納言平惟仲から久しぶりに便りがあったので、それに返歌した」とある。
      • この和歌は一般に「あなたとの仲は儚い夢で終わったと思っていたのに、どうして今更寝た子を起こすような便りをするのでしょうか」と解釈され、時期は長徳元年(995)道隆没後であるらしい。
        • この解釈が正しければ、以前「貴子と平惟仲は親しい間柄であって、道隆が没したときを狙って、文を送ってきた」ことになる。なんとなく怪しい
        • 平惟仲は「娘の定子の死後、(親のように)その葬儀を取り仕切って」もいる。