54.儀同三司母
高階貴子 上の句順 下の句順
(INDEX)
わすれしの |
ゆくすえまては |
かたけれは |
けふをかきりの |
いのちともかな |
わすれじの |
行末迄は |
かたければ |
けふをかぎりの |
命ともがな |
忘れじの |
行末迄は |
かたければ |
今日を限りの |
命ともがな |
- ■歌について
- 若き頃の道隆と恋しあっているときの歌。男の心の変わる憂き目を見るよりは、変わらぬ先に死んだ方がましだ、と詠っている。
- ■出典
- 新古今集恋三
- ■作者略歴
- ?-996。高階成忠の娘。関白藤原道隆の妻となり、伊周、定子(中宮)を産んだ。儀同三司とは伊周のこと。伊周が官を復されて、寛弘5年(1008)准大臣になったとき、唐の官名儀同三司と号したのに始まる。
「儀同三司母」については「まとまった史料」がなく不明点が多いが、分かっていることを整理してみました。
- 生年ははっきりしない。「高階 貴子」が本名、名前の「読み」(現代風の「たかこ」ではないらしい)もはっきりしない。
- 父は式部大輔従三位「高階成忠」。一条天皇の東宮時代の「東宮学士」。
- 母は不詳。
- 父の指導で「漢詩」の能力を身に付けた。
- (女ながら)「漢字も書ける」ということで、円融天皇の内侍(掌侍)に採用された(安和2年(969)か)。高階出身なので「高の内侍」(こうのないし)と呼ばれた。
- 以下、和歌なども含めて、時期(年)はいずれもはっきりしない。
- 内裏で藤原道隆に見初められ「妻」となった。
- 伊周(天延2年(974)生まれ)、隆家、定子、原子(三条天皇女御)などを生んだ。
- 「永祚2年(990)(5月)」道隆が関白になり、定子が一条天皇中宮になると、貴子も「正三位」に昇進(記録はないが「尚侍」になったかも)。この頃が絶頂期。
- 長徳元年(995)(4月)道隆が亡くなると、長徳2年(996)花山院闘乱事件を起こした伊周が左遷され(実際には「明石」で留まったか)、没落の道を歩み「長徳2年(996)10月」失意の内に亡くなった。
- 良しも悪くも「関白藤原道隆の妻」だった人なのだろう。
- 上の和歌は、詞書に「中関白(藤原道隆)が通い始めた頃」とあるから「天禄4年(973)」頃詠まれたか。
- 藤原道隆は他にも多くの「妻」を持っていた。少なくとも5人以上。
- 長徳2年(996)5月「夜のつる 都のうちに こめられて 子を恋ひつつも なきあかすかな」(詞花集)と詠った。
- この歌は伊周が左遷で大宰府に向かう折、明石に着いたと聞いて(私は都から動けず離れ離れになったと)詠んだ。人生最後の和歌だと思うが、内容的に「辞世の和歌」ではない。
- 1つ変な和歌が残っている。「夢とのみ 思ひなりにし 世の中を なに今さらに おどろかすらむ」(拾遺集)。
- 詞書に「中納言平惟仲から久しぶりに便りがあったので、それに返歌した」とある。
- この和歌は一般に「あなたとの仲は儚い夢で終わったと思っていたのに、どうして今更寝た子を起こすような便りをするのでしょうか」と解釈され、時期は長徳元年(995)道隆没後であるらしい。
- この解釈が正しければ、以前「貴子と平惟仲は親しい間柄であって、道隆が没したときを狙って、文を送ってきた」ことになる。なんとなく怪しい。
- 平惟仲は「娘の定子の死後、(親のように)その葬儀を取り仕切って」もいる。