61.伊勢大輔
いせのたいふ 上の句順 下の句順
(INDEX)
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ならのみやこの |
やへさくら |
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にほひぬるかな |
いにしへの |
ならの都の |
八重桜 |
けふ九重に |
にほひぬるかな |
古の |
奈良の都の |
八重桜 |
今日九重に |
匂ひぬるかな |
■親族歌人 大中臣能宣の孫
- ■歌について
- 一条院のもとに奈良の八重桜が奉納された折、紫式部に替わって読んだ歌。禁裏の九重に掛けて、詠い込んでいる。
- ■出典
- 詞花集春
- ■作者略歴
- 生没年未詳(989?−1060?)。伊勢神宮の祭主、大中臣輔親の娘で、伊勢大輔と呼ばれる。筑前守高階成順の妻となり、多くの子を成した。紫式部と共に、一条院中宮彰子(上東門院)に仕えた。
- 【補】
- 中宮彰子に出仕したのは、寛弘4年(1007)頃らしい。この和歌に見られるように、紫式部が伊勢大輔を引き立ててくれた(大役を譲ってくれた)ようです。
- 同年代の「女流歌人」の生年を比較すると次のようになりそう(推定も入っているから必ずしも正確ではないが)。
- 赤染衛門:957年( 987年倫子に出仕、和泉式部の義叔母(父の弟の妻))
- 清少納言:966年( 993年定子に出仕)
- 紫式部 :973年(1005年彰子に出仕)
- 和泉式部:978年(1009年彰子に出仕、出仕時期は比較的大人(32歳)になってからだった)
- 伊勢大輔:989年(1007年彰子に出仕、紫式部・和泉式部の両大御所と仲良く働いたらしい)
- 相模 :992年(1010年妍子に出仕、清少納言の義理の娘(息子の嫁))
文献から「作者が誰と交際していたか」がわかる部分を取り上げてみよう。
- 紫式部
- 「中宮へ御膳進上」の段(紫式部日記)
- (前略)髪を綺麗に結っている女房は、源式部(加賀守重文が女)、小左衛門(故備中守道時の女)、小兵衛(左京大夫明理の女)、大輔(伊勢斎主輔親の女)、大馬(左衛門大輔頼信の女)、小馬(左衛門佐道順の女)、小兵部(蔵人の庶政の女)、小木工(木工允平文義の女)で、容貌の美しい、若い女房ばかり(以下略)。
- 伊勢大輔は若い同僚として紫式部と一緒に働いていて、紫式部は「伊勢大輔は美しい」と書いている。
- 「左京君へのいたずら」の段(紫式部日記)
- 侍従の宰相の五節局で、(中略、以下意訳)公達たちが高齢の左京君の「年寄ぶり」を笑っているの聞いて、紫式部は次の歌を伊勢大輔に書かせた。「節会の大勢の人々の中に、嘗ては光り輝いておられた左京君を、感慨深くお見受けしました」。
- 伊勢大輔は紫式部と同席(紫式部の下役)で働いていたことがわかる。
- 「清水寺参詣」の段(伊勢大輔集)
- 清水寺に参詣した折、偶然に紫式部と邂逅し紫式部から奥山の和歌を送られ「消えやすき 露の命に 比ぶれば げに滞る 松の雪かな」と返した。
- 職場を離れても、伊勢大輔は紫式部と和歌をやり取りする仲だったことがわかる。いつも先手は「先輩の紫式部」だったようです。
- 和泉式部
- 「和泉式部初出仕」の段(伊勢大輔集)
- 初出仕の日、和泉式部は夜通し伊勢大輔と語り明かした。朝になって和泉式部から「思はむと 思ひし人と 思ひしに 思ひしかとも 思ほえしかな(仲良くなりたいと思える人だなと思っていましたが(お会いしてみたら)思ったとおりの人だったと思えました)」が送られてきたので、伊勢大輔は「君をわれ 思はざりせば 我をきみ 思はむとしも 思はましやは(私こそ貴女のことを考えていたのですよ。私が貴女のことを気にしているとはお気づきにならなかったのですか)」と返した。
- 2人は初の出会いから「和歌では気が合った」ようです。2人とも「思うを重ねて」和歌の技巧を競っているように見えます。
- 伊勢大輔集に和泉式部はこれしか出てこない。
- 赤染衛門
- 「赤染衛門に教えを乞う」の段(伊勢大輔集)
- 伊勢大輔が「あと暮れて 昔恋しき 敷島の 道を問ふとふ 尋ねつるかな(父が亡くなって困っています。昔父に導かれた和歌の道について、貴女に教えて頂きたくお訪ねしたいのですが)」が送ると、赤染衛門は「八重葎 絶えぬる道と 見つれども 忘れぬ人は なほ尋ねけり(葎が茂って絶えてしまった道のように見えますが、道を見つけようとする人はいつでも尋ねてきてください)」と親切な返事がきた。